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金田正一の編集履歴

2019-05-17 01:29:07 バージョン

金田正一

かねだまさいち

愛知県中島郡平和村(現:稲沢市)出身の元プロ野球選手・監督、野球解説者・評論家、実業家、タレント。血液型はB型。

概要

1933年8月1日生まれ。ポジションは投手。左投左打。

1950年に高校を中退し、国鉄スワローズ(現東京ヤクルトスワローズ)に入団。弱小球団のエースとして、1951年から15年のうち14回20勝以上を挙げる活躍をみせ、大エースとして「金田天皇」とまで呼ばれるほどであった。

1964年のシーズンオフに読売ジャイアンツに移籍。1969年には日本人投手では史上初にして唯一となる通算400勝を達成。同年、現役を引退。

通算400勝298敗はどちらも日本プロ野球記録であり、その他にも通算完投数365、通算投球回数5526.2、通算対戦打者数22078、通算奪三振数4490、通算与四球1808など、数多くの日本プロ野球・セリーグ記録を保持している。

金田の背番号「34」は、巨人の永久欠番の一つとなっている。1988年、野球殿堂入り。


長嶋茂雄のデビュー戦で、4三振を奪うなどのエピソードにも事欠かない。

また、投手としてだけでなく打者としても優れた実力を発揮しており、通算38本塁打を放っている(うち2本は代打)。投手なのに8回も敬遠されている。

2018年現在、日本人投手の通算本塁打記録は大谷翔平選手が更新し、現在も継続中であるが、二刀流プレイヤーである彼の本塁打は、その大半が指名打者外野手として出場している時に記録されたものであり、「投手として出場している時」に記録した本塁打数は依然として金田の記録が最多である。


「現役の頃は180km出しとった」と嘯くなど現役時代を知らない若者層からは、ネタキャラ扱いされるが、実は超理論派で当時のコンディショニング理論における先駆者。

当時から効果的とされていたマッサージはもちろん、食事の重要性もしっかりと把握しており出費を惜しまず最高の食材を自ら買いだしてトレーニングメニューに合わせた献立を板前に作らせたり、利き腕を痛めないよう日常生活レベルで徹底して気遣うなどしていた。


二刀流の大谷翔平選手が2016年8/27の西武戦で20号本塁打をマーク。プロ4年間での通算本塁打を38号とし、打撃も得意だった金田氏の通算本塁打に並んだことが取り上げられた。

その一件に関して、TBS系テレビサンデーモーニングの名物コーナー「スポーツ週刊御意見番」で金田氏がゲスト出演した際、司会関口宏氏とコーナーレギュラーの張本勲氏の面前で「ワシにもプライドがありますから、ピッチャーで登板して打ったホームランと、DHで打ったソレとハッキリと区別して発表しなさいよ!中身が全く違う!そうしないと、ワシにもプライドが一応ありますからね!」と金田氏は語った。

実際、金田氏は前述の38本のうち登板時に36本、代打で2本を放っているという実績がある。大谷翔平も2016年7/3のソフトバンク戦に「1番投手」で先発出場。1回の第1打席で先頭打者本塁打を放った。それが4年目で登板時に放った初本塁打だった。


現役引退後はロッテオリオンズ(現千葉ロッテマリーンズ)の監督を2度務めており、1974年には日本一に輝いている。

1978年には稲尾和久村山実らと共に名球会を創設。初代会長として、名球会入りした選手が出るたびに、金田がブレザーを贈るシーンは恒例となっている(現在は退会している)。


鉄人28号の金田正太郎の名前の由来でもある。

また、巨人の星侍ジャイアンツでも、主人公の良き理解者として大きな存在感を放っている。


実弟の金田高義、金田星雄、金田留広は元プロ野球選手。(1軍経験があるのは留広のみ)

息子は俳優の金田賢一。甥に元プロ野球選手の金石昭人がいる。


金田天皇

打てば三振、守ればエラー」とまで揶揄されていた国鉄に在籍した金田は、球団内で異次元の成績を挙げ続た。

とにかく弱いので金田が先発ではない日も、なんとか6回辺りまで守り、その後金田に救援させて逃げ切るというのがデフォになっており、救援勝利数も日本記録である。

また、同年代の大投手と比べても非常に高い奪三振率は国鉄の拙い守備ゆえに徹底して三振を取りに行ったがゆえであり、それでもこの時代の国鉄は失策数において下位を争い続けていた。


金田もこの悲惨なチーム事情をよく理解しており、良くも悪くも球団における天皇として君臨し打ち込まれると勝手に降板する、監督も大エースの彼の機嫌を損ねないように気をつかうなど「監督を監督する選手はあいつくらい」と揶揄されるほどの権勢を誇った。

とある試合でプロ入り初勝利を目前にした投手がもう一回でその権利を得ようというとき、10年連続20勝達成のために「ピッチャー、ワシ」と勝手に出て勝ち星をかっさらってしまったことがある。


しかし、決してチームから孤立していたわけではなく面倒見のいいガキ大将的な存在であり、皆から慕われていたという。先述の投手も結局プロ未勝利で終わったが、笑い話として済ますなど恨まれる存在ではなかった。

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