概要
相手の行動・言動の良し悪しを判断、もしくは相手の失敗や欠点を取り上げ、その根拠を示しながら客観的に改善を求める事。
ここで注意しなければならないのは批判というのはあくまで、「冷静かつ論理的に対象の問題点を明確にし、同時に相手が次に活かすべき改善点を導き出す」事を目的とした、至って建設的な行為だという点である。
『批判』と『非難(批難)』について
よくネット・SNS上では『批判』と称して、相手を誹謗中傷や罵詈雑言、暴言を用いて叩いたり、揚げ足を取ってネガティブキャンペーン(ネガキャン)など、上から目線でただ感情に任せてその存在を根本から否定したり、人格攻撃をする人が多いが、これは『非難(批難)』と呼ばれる批判とかけ離れた全く別の行動である。
本来の意味の『批判』とは上述のように、客観的・冷静にかつ論理的に行うもので、使う言葉の選択やその表現の仕方には細心の注意で慎重になる必要があり、単に悪い点を引き合いに出すのではなく、同意できる、良い部分も評価する事も「正しい批判」を行う上で重要となる。
その批判が自身の感情から来るものにせよ、理屈から来るものにせよ、如何に具体的な理由を述べていたとしても、肝心の文言が恣意的あるいは中傷的過ぎたりすると、批判としての価値が無くなってしまいかねない。
また、例え具体的な改善案や対案を出していたとしても、それが現実的に反映困難あるいは不可能な要望だとやはり批判としては不適当だったりするため、批判やそれに基づく改善要求を行う際にも相手側の事情と状況についてそれなりに考慮する事も視野に入れておくべきである。
なお、批判自体はいかなる場合でも出てくるものであるが、いくら厳しく批判されたからといってそれをアンチの難癖と見なして拒絶する事は決して好ましくない。
一方で、批判する側もその対象の純粋なファンのことも考えて節度と程度を守りつつ、周りの評価に流されずに冷静かつ丁寧に己の意見を述べ、例えその批判を反論、否定されても「その対象への理解を深めたり、さらに対象のより良い今後を考える」目的で行うべきとされている。
その批判が「対象の事を思って」というのなら尚更であり、仮に「自分には受け入れがたいor許せない」と思った場合も無理に執着したりせず、それから素直に離れた方が精神的に健全であろう。
なぜ批判の意味が誤解・誤用されているのか?
重ねるように、世の中(特にネット・SNS界隈では)にはただの文句や暴言、不満を書き連ねたような主張を「辛口」「毒舌」と称してさも正当な批判であるかように使い、そしてそれを他人に反論されたり咎められたりすると、
- 「信者・関係者・工作員が言論弾圧している」
- 「言論の自由だろ」
- 「批判を許さないなんておかしい」
- 「同調や賛同しか認めないのか」
- 「言いたいことも言えないこんな世の中なんて」
などと逆恨みじみた反発に出る者もおり、さらに極端な例だと炎上・私刑行為を正当化したり、アンチがその対象を最初から完全に否定する為のロジック(論理)として、『批判』という言葉を都合の良いように使ってくるケースも少なくない。
当然ながらこれらは批判ではなく非難、悪く言えばバッシング、ヘイト行為である。
ここまで批判の誤用が多い要因として、「日本人はディスカッション(討論)・ディベート(議論)が下手」と通説として言われており、日本人は協調性や同調を重視しがちな民族であり、考えが異なる主張や意見される事自体を「こいつは敵だ」「自分が否定された」として、一種の防御反応で攻撃的になり、和を乱すとして排斥しようとする傾向がある(逆に海外ユーザーは皆正しい批判ができるのかと言えばそうではないが、本題の趣旨から外れるので割愛する)。
日本で議論・討論の学校授業が全国的に取り入れ始めたのは2010年代からであるため、良いか悪いかの二元論で考える、安易に人格攻撃に走るような極端な思考の人が未だに少なくないと言われている。昔から考えが違ったり、暗黙の了解に従わない住人に嫌がらせや排斥しようとする『村八分』という言葉があるが、ネット・SNS上でもその文化が残っていると考えると分かりやすい。
議論・討論の授業や体験をした人達なら理解できるであろうが、「意見と相手の人格は別に考える」事が前提であり、批判の際もこのロジックが必要になる。
また、テレビや新聞といったメディアなどで相手にダメ出しをする事を便宜的に『批判』と述べる場合が多いため、こちらも誤用が広がった要因として挙げられる。
批判への批判
批判というのはその性質上、「その対象に関する一部分、あるいは全体を一度は否定する」とも言えるため、その対象を強く愛好している者、挙げられた批判点をそうだと思わない者から逆に反論されることも少なくなく、いわゆる“批判への批判”が発生する可能性も十分にある。
よく「創作物だろうが個人的な意見だろうが、世に発信したのなら批判されて当然」と主張する者も居るが、裏を返せば、自分が発信した批判には、同時に他者から批判される権利が発生し、それを覚悟しないといけないという事でもあると言える。
その対象の事柄にもよるが、強い否定や攻撃を含んだ批難に近い批判の場合には、自身への反発を生む事もあることを多少なり自覚しておいた方が良いだろう。ただし、その批判返しされた内容が批判ではなく非難であった場合はその限りではない。
一方で、話の逸れる、空気が悪くなるという観点から「批判への批判は不毛だからやめるべき」という意見もあり、特に最近は極端な愛好派と極端な否定派の二極化が進み、なおかつ上記のような「批判という行為自体が乱雑な感情的主張」と誤用された結果、同程度のレベルに落ち込んだ不毛な口喧嘩となってしまい、無意味にその場が荒れるだけの状態に陥ってしまうことが少なくないのが実情である。
pixiv・ピクシブ百科事典における批判
pixivでもメイン画像のように、イラストを使って対象への批判を表現するケースはタグの有無に関わらず見られるが、それらは絵よりもその中の(あるいはキャプションの)文章の方に重きが置かれる傾向があり、イラスト自体は至って簡素だったり、もしくは他人の絵を利用したイメレスで済ませている場合も多い。
ピクシブ百科事典においては、Wikipediaのように表記に対する議論を重ねる必要性は低く、こちらのような笑える皮肉やユーモアを交える事も必須ではないため、その対象に関して一方的な批判的(批難的)な文章が書かれることが少なくなく、中には糾弾や提起という名目で対象の問題点のみを取り上げたような、極めて否定的な内容の記事になっているケースもままあったりする。
その情報に関しても、明確な外部ソースに基づく論拠が存在するのもあれば、その編集者個人(もしくは全体から見てごく一部の少数派層)の感情的かつ恣意的な解釈による場合も含まれており、その信憑性や客観性については怪しいものも少なくない。
それ故に「マイナスイメージを植え付けるだけだからそのような記事執筆は控えるべき」という意見もあれば、「ここは“Wikipedia”じゃないんだから何を書くのも勝手」と主張する者もいる。
当大百科における批判的記述の是非に関しては、その範囲や正しい批判のあり方も含めて賛否両論になっているが、後者の編集者個人の感情的かつ恣意的な解釈で書かれた場合は、『ピクシブ大百科 利用規約』の「真否についての事実確認が困難な内容や虚偽の内容の情報の記載」「アップされている情報を誹謗中傷する内容の情報」の禁止行為に抵触する可能性も考慮に入れるべきであろう。
百科事典を名乗っている以上、一定の公平性・中立性は必要になってくるのは頭に入れておきたい。
関連項目
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誤った批判による行為・思考