Tu-4
とぅーちとぃーりぇ
経歴
日本の九州および満州国への爆撃に参加したB-29のうち1944年7月、8月に各1機、11月に2機が機体の故障などによりソ連領内である沿海州に不時着した。各機の搭乗員は抑留された後にアメリカに送還されたが、機体はそのまま没収され、スターリンの命令によりそのうちの1機である「ジェネラル・H・H・アーノルドスペシャル 」がリバースエンジニアリングされた。そして、アンドレイ・ニコラエヴィッチ・ツポレフらにより解体した部品に基づく設計が行われ、1946年夏に完成したのがТу-4である。ヴィクトル・スヴォーロフは著書『ソ連軍の素顔』の中でТу-4開発時のエピソードに触れ、当時のソ連が入手したB-29の完全なコピーに努めるあまり、製造時に誤って開けられていた小さなドリル穴をそのまま再現してしまった。また国籍マークとしてアメリカ軍の白い星とソ連軍の赤い星のどちらを描くべきかの判断を下せず、ベリヤ経由でスターリンに裁定を仰いだとしている。さらにその際、被弾した穴とそれを塞ぐパッチまで正確にコピーされたとも言われるが、真偽は定かではない。
ただし、実際にはТу-4とB-29にはいくつかの違いも見受けられる。まず、ターボチャージャーはコピーであったものの、エンジンはB-29に搭載されたR-3350のコピーではなく、ソ連製エンジンM-25の流れを汲むASh-73TKであった。また、性能面では航続距離に大きな差がある。これは、B-29の調査の際にインテグラルタンクのコピーに失敗したためとされている。前後通路や機銃塔の火器管制装置も、技術不足でコピーできなかったとされる。一番大きな問題は、当時のアメリカはヤード・ポンド法を用いていたのに対し、ソ連はメートル法を用いていた。そのため、図面を再現するにあたって誤差が生じ、自重で500 kgほど重くなってしまった。
運用
1947年5月19日に初飛行し、8月3日にモスクワで行われた航空記念日パレードで初めて披露されたТу-4は、その後もエンジンやプロペラなどの改良が行われた。1949年半ばにはソ連軍で本格的に運用され、後継機であるТу-95が登場する1950年代の終わりまで製造された。
中国人民解放軍空軍にも引き渡されており、その後、エンジンをASh-73TKレシプロエンジンからWJ-6ターボプロップエンジンに変更した。
保存
モスクワ近郊にあるロシア航空宇宙軍モニノ空軍博物館にて静態保存されている。野ざらしの為、保存状態はそれほど良くない。
北京にある中国空軍航空博物館に2機のТу-4が展示されている。そのうち1機は早期警戒機仕様のKJ-1/空警1号で、1988年に退役した機体である。こちらも、野ざらしであり、モニノ空軍博物館と同様に、保存状態は悪い。