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法正の編集履歴

2019-08-24 14:26:21 バージョン

法正

ほうせい

法正とは、中国後漢末期の政治家・参謀 。流浪の群雄であった劉備に巴蜀を取らせることを進言し、その飛躍に大きく貢献した男である。

プロフィール

生年176年(熹平5年)
没年220年(建安25年)
出身地扶風郡郿県(現在の陝西省眉県)
孝直

概要

196年、飢饉に遭ったがために、中央の争いに参画せずに益州を治めていた劉璋のもとに孟達と共に身を寄せる。

県令や校尉に任じられるが重用されず、まだ劉璋に仕えていた同僚に誹謗されていたことが影響しています。そのことから「劉璋の下では大事を成せぬ」と判断し、張松、孟達らと共に劉備を迎え入れることを共謀。


初め劉璋に進言し、曹操と断交させ、劉備に接近させることに成功。

次いで漢中の五斗米道を率いる張魯の脅威を利用してその押さえとして劉備を益州に入れることに成功。

劉備の蜀盗りに劉璋が焦土作戦を取らぬことを見抜いたり、自ら降伏を勧める手紙を書いたり、様々な献策を行い、龐統黄忠魏延らと共にこれを見事に成功させる。


劉備が蜀を支配すると中央の政治にも手腕を発揮、劉備の策謀相談役となった。

諸葛亮らと蜀科を制定したり、名声のあった許靖の名を利用するなどした。

が、性格は最悪である。

陰湿でここまで質の悪い人物も少ない。過去の恩に大恩をもって報い禍根に死をもって報復する。

とにかく執念深く、恨みを絶対に忘れなかったと言う。重ねてこの時期劉璋配下時代に私怨のあった者を捕らえ勝手に殺害していたのだが、 この行為に怒りを覚えた人物が、法正を除くべきだと諸葛亮に談判するが

「かつて主公(劉備)が公安におられたとき、北は曹操の強大さを畏れ、東は孫権に気兼ねし、近くは孫夫人が変事を起こさぬかと、いつも気に病んでおられたが、こうした進退ままならぬときに、法(正)孝直は主公(劉備)を補佐して翻然と羽ばたかせ、二度と他人の制約を受けないで済むようにしてくれた。どうして法正の好きにしてはならぬと禁止できようか?」

後年泣いて愛弟子を斬った諸葛亮もその功績を評価していた。


張魯から曹操の下へと渡った漢中には夏侯淵張郃が駐屯しており、法正は漢中攻略を進め、軍師となり従軍。一時形勢不利となりながらも適切な献策を行い、定軍山でも策により夏侯淵を黄忠に斬らせることを成功し、曹操の攻撃も全て策謀にて捌き切った。


軍事に関して、劉備は法正に絶大な信頼を置いていた。不思議と法正の言葉は素直に聞き入れるのである。定軍山で曹操と対峙している時、戦況が不利となり劉備の元に矢が飛んでくるようになった。劉備は曹操との直接対決で気が立っていたのか、とても撤退を聞き入れる雰囲気では無かった。そこで法正は劉備を庇うように矢面に立った。「孝直、矢を避けよ!」と言う劉備に、

殿が危険に晒されているのです。私がつまらぬ男ならここで死にましょう。

と語った。ようやく冷静になった劉備は「わかった。一緒に引き上げよう。」と語り撤退した


漢中からの撤退時、今回の劉備軍の作戦を改めて見た曹操は法正のことを知ると

「わしは有能な人材をほぼ全て集めたが、なぜ法正のみを手に入れなかったのだろうか」と悔しがった。


劉備が漢中王となると更に昇進するが、漢中戦での激務がたたってか翌年に病死。

劉備は何日間も彼を悼み、唯一の『翼侯』という諡号を送られている。


死後夷陵の戦いが起こり、劉備が敗北すると「法正殿が生きて居たならば止められたであろうし、行っていても大敗は避けられた」と諸葛亮は嘆いたという。

つまり 、軍事に関しては劉備と法正こそが「水魚の交わり」であった。


このように同僚の諸葛亮とは性格が合わなかったが、公の立場(共に蜀の法律の編纂に当たった際など)にあっては互いを認め高く評価していた。

だだ、法正が善悪の判断無く、冷酷に判断が下せると言うのは、彼の軍略の冴えの一端を担っていたとも言える。


三国志を編集した陳寿は「法正は判断力に優れ、並外れた計略の所有者であった。しかし、徳性について賞賛されることは全然なかった」と評価し 「魏臣に例えると程昱郭嘉に比肩する」、龐統と共に曹操腹心の軍師たちに匹敵するとのことである、最大級の評価を与えられた。


創作作品において

蒼天航路

法正さん【蒼天】

「この法正が後曲におる限り、千里を駆けても陣は崩せまいぞ!」

感性的な諸葛亮とは真逆に、数多くの策から最善の一手を導き出す軍師。正史にあるような性格の悪さどころかかなり性格が良く、軍師嫌いの張飛も認めるほど。

漢中攻防戦にて大活躍し、曹操軍を散々に破り、曹操を追い詰めるが、陣中で倒れそのまま帰らぬ人となった。

尚、策にて曹操を死地に追い込んだのは賈詡と法正だけである。


真・三國無双

法正さん法正

「法孝直、全てに報いよう」

CV:橋詰知久


7猛将伝から参戦。

陳寿に『徳性について賞賛されることはなかった』と評価されたこともあってか、ドSどんな小さな恩にも恨みにも報いるという徹底した報恩報復主義者。目下相手にも敬語を使う事もあって、正しくインテリヤクザの異名が似合う人物となっている。

7猛将伝発売前のキャッチコピーは「すべてに報いる劇薬」だったが何故か程なくして変えられた。


自分の性格か悪いを自覚しており、自身を悪党と称し、恩返しや恨みを晴らす事は人として自然な事だと考えている「報いの精神」の持ち主。劉備を御人好しとしながらも彼の仁徳と器量を認め、劉備に受けたという大恩を返すため忠義を尽くす。

劉備死亡時には「俺の居場所はもうどこにも無い」と絶望するなど、計算高い冷徹には見えてもなにげに大徳に惚れ抜いている様子。

反面、劉備にも無遠慮に喋る、劉備を囮にするというとんでもない策を実行するという徳性の低さのせいか、趙雲諸葛亮とは仲が悪く、味方である法正に対し露骨に嫌悪感を示すという珍しい趙雲や星彩が見られる。

諸葛亮には「本当は俺のこと嫌いですね? 別にいいですよ。俺もそうですから」と発言し、英傑伝でも表面上だけは友好的な会話をしている。


対女性用台詞により、郭嘉と並び歩く18禁と渾名されている。

無双で「その日の快楽だけを求めて」という台詞が見られるのは法正だけ!


7猛将伝にて、史実では既に過労死していた法正が生きていたら、という仮定を元にした夷陵復讐戦というステージがあるが、

義兄弟の関羽を殺した呉へ復讐するという劉備の行いを止める人間しかいなかった蜀陣営において、劉備に加担どころか諸手を挙げて奨励した初めての人物といえる。

報復命というだけあってものすごく生き生きしており、大変周到な罠でもって呉に倍返しを行う。


8では史実の益州攻略に協力しと漢中侵攻が描かれているたが、尚書令となるも激務に果てるはずだった、夷陵の戦いより前が病死、死の直前に関羽や荊州へ方面は孫呉の執念を指摘してくれる。


諸葛亮とは性格が正反対で実際に仲が悪なく、個人では嫌いだけど仕事に関しては同僚として実力を認め共に戦っています、仲間としてお互い認め合っているような関係になっていました。

法正を尚書令に諸葛亮があと押しをしています、こんな悪党をいいのですかととう法正に劉備殿には劇薬も必要ですといなす諸葛亮でした。


後にDLCで法正が主役のIFシナリオが配信された。劉備の命令に従えに諸葛亮の指示するで峨眉山の湯治で快癒してから、樊城で関羽を助けたり夷陵で孫呉をハメたり、街亭の戦いを逆転勝ちしたり、南蛮を利用した上で荊州を奪還する、五丈原で司馬懿を敗走させたり、ついでに今に事切れそうな蜀と諸葛亮の命を繋ぎとめてあげたりと、やりたい放題の大活躍が描かれている。

関連タグ

三国志 劉備 諸葛亮 黄忠 曹操 郭嘉

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