概要
生誕 | 天暦4年(950年)? |
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死没 | 治安2年(1022年)? |
主君 | 源頼光 |
史実性の議論
戦国時代の武将・田村清顕の一人娘で、伊達政宗の正室となった愛姫の実家は、坂上田村麻呂の子孫を称した田村氏として歴史好きに有名である。
時を同じくして、戦国時代の武士に田村麻呂の子孫を称した坂上氏の34代目山本荘司・坂上頼泰という人物がいる。頼泰は多田院御家人として室町幕府13代征夷大将軍・足利義輝に仕えていたが、同じく多田院御家人で中世以降は筆頭的立場にあった塩川伯耆守が織田信長に降ると、坂上氏の本拠地である山本郷は塩川氏に攻められて領下となり、紆余曲折を経て隠居した頼泰は、庄屋となって酒造などを営んで余生を過ごし、山本荘司家としての坂上氏は衰退した。この頼泰から遡ること3代目山本荘司が浦辺太郎坂上季猛である。
山本荘司家は、摂津守となった源満仲が多田に政所(多田院)を設けたとき、全国30ヵ所以上に散在していた坂上党武家団を必要とし、坂上党の棟梁で山城国愛宕郡八坂郷に住む検非違使従五位上明法博士右衛門大尉坂上頼次に参画を求めたことに始まる。これを承諾した頼次は満仲から摂津介に任命されると、坂上党から選りすぐった強者を山本郷に配した。これを「坂上本家十二流」(金岡、浦辺、辻、柏葉、桧隈、田村、泉、左、玉造、山本、東、安潟)という。坂上氏は西政所、南政所、東政所を統括して清和源氏の本拠地である多田院を警衛した。
こうして初代山本荘司となった頼次は、和泉国高師の浦に住んでいた浦辺七良坂上季長を呼び寄せ、清和源氏の家臣団に弓馬などの武芸の指導をさせると、季長に後を託して山城国へと帰った。その後は浦辺坂上氏によって山本荘司職が代々継承され、季長の子・浦辺太郎坂上季猛が坂上党武家団の棟梁を継ぐと、3代目山本荘司として源頼光に仕えた。
季猛は渡辺綱を筆頭とする頼光四天王の一人と称され、坂上氏の中祖である田村麻呂の遺品などを御神体として松尾丸社(本宮田村将軍宮、若宮殿松尾丸大明神、五丈殿、弓場殿、刈田宮、田村公御鎧畠、弓洗池)を設け、その北畔の荘司屋敷を中心に武家屋敷が軒を並べた。季猛の名は『浦辺観世音尊像日記』(蝸牛廬文庫)などにも残されている。
江戸時代中期に多田満仲の後裔を称した多田義俊は、浮世草子作者・多田南嶺としても知られ、南嶺名義の紀行文『宮川日記』の付録にある天津和尚から火打ち石を貰った話の中で「浦辺季猛の子孫は摂津国山本で坂上党を号した」と記し、和尚はその山本坂上氏の人であるとしている。
伊丹で創業した銘酒「剣菱」を稲寺屋から受け継いだ大鹿村の津国屋勘三郎は本名を坂上桐蔭といい、津国屋勘三郎の養子となって津国屋善五郎を名乗った江戸時代中期の読本作家・伊丹椿園も本名を坂上善五郎といった。椿園の実家も坂上氏で浦辺氏や山本氏も名乗り、実父である大鹿屋の坂上伊兵衛は俳諧師・坂上蜂房であった。
天津和尚の出身と考えられる山本坂上氏もまた、池田で酒造業を営んで文化人と交流を持った坂上稲丸も当主を勤めた山本屋弥右衛門家である。
従来は説話研究などから卜部季武の実像が検証されてきたため、多田院御家人の坂上氏から研究されることはほとんどなかった。寺社の縁起などを地方伝承として差し引いても、
- 多田院御家人に山本荘司家の坂上氏がいて、
- 2代目以降は浦辺坂上氏が引き継ぎ、
- 3代目が浦辺太郎坂上季猛で、
- 季猛は満仲や頼光に仕えていた
ことは、説話にみられる卜部季武の実像を探る上で無視できない。
また、浦辺季猛の名前は江戸時代の伊丹や池田で蔵元や文化人となった坂上氏の祖先の中にもみえ、多田神社の別当に山本坂上氏の名がみえるなど、多田源氏の本拠地周辺において坂上氏と浦辺太郎坂上季猛の事績が、実際に説話の卜部季武に反映されているのかなど、今後の研究の成果が待たれる。
説話・物語
卜部季武の説話は『今昔物語集』や『古今著聞集』に残されている。
ただし「説話文学」であり、「歴史史料」ではないことから、内容をそのまま受け取れず、史実での事績がどのくらい反映されているのかなど、今後の説話研究の成果が待たれる。
『今昔物語』には卜部季武として源頼光の3人の家来の1人として記されている。季武は弓の名手として知られており、鹿島流武芸を身に付けていたともされる。
慶応義塾大学図書館蔵の絵巻『しゆてんとうし』では「ひせんの国」(備前国もしくは肥前国)「よしをか」の「もりつね」という鍜冶が打った「あさまる」(あざ丸?)を所有している。
他に神楽「土蜘蛛」「子持山姥」「滝夜叉姫」に登場することでも有名。