「Hey! my son...look me father!? I'm tough I'm tough!! My son listen to me!! listen to me...next time next time! I kill you!」
(1993年6月、“息子”グレート・ムタとの二度目のシングルマッチの後で行われたマイクアピール)
来歴
高千穂(タカチホ)時代~再デビュー
1948年、宮崎県生まれ。本名は米良明久。
もともと1960年代からプロレスラーとして活動しており、リングネームは
宮崎出身である事から高千穂明久と名乗っていた。1970年代に渡米し、
省略したタカチホというリングネームで活動していたが、
1980年代初頭に、歌舞伎をイメージしたペイントレスラーに転身。
リングネームをお馴染みのザ・グレート・カブキと改めた。
当初はこのギミック変更はせいぜいつなぎ程度になれば良いという感じで行ったと言われているが、
般若の面を付けた連獅子姿、鎖帷子を纏った忍者スタイル、日本刀を携えた鎧武者姿等の
いかにも日本的な入場コスチュームに加え、毒霧を吹き上げる、
両手に持ったヌンチャクを凄まじい勢いで振り回すなどのパフォーマンスが全米で人気を博し、
シングル・タッグ含めて数多くのタイトルを獲得するなど、まさに破竹の勢いとなった。
高い人気と東洋特有の要素を押し出した不気味なムードは後の
日本人レスラーにも非常に大きな影響を与えており、「カブキの息子」として
デビューしたザ・グレート・ムタや
『プロレス版メジャーリーガー』ことTAJIRIなど、
東洋系ギミックのヒールレスラーの元祖となっている。
日本での活躍~引退
アメリカでのギミックをそのまま凱旋帰国(カブキ=高千穂は1976年、全日入団)。
日本でも絶大な人気となりその後1990年に退団するまで約7年間全日に所属していた。
その後はSWSを経て天龍源一郎の団体WARに在籍中、
新日本プロレスに参戦を果たし越中詩郎率いる反選手会同盟~平成維震軍の一員に加
わった。
そこで“息子”であるムタとの『親子対決』が二度にわたって実現された。
翌1994年には一度だけではあるが、WWFにもカブキとして参戦したほか、
プロレスラーとしてのキャリア末期はいくつかのインディー団体に参戦。
1998年、現役引退を表明。その引退に際してムタの代理人である武藤敬司が「パパと一緒に試合がしたい」とコメント。そして同年8月の新日本プロレス大阪ドーム大会でカブキとムタの『親子タッグ』が実現した。
引退後は、居酒屋を経営する傍ら、インディペンデント系のプロレス団体でレフェリーを務めたり、若手レスラーのコーチを引き受けたりしていたが、2009年、大阪プロレスでレスラーとしての参戦を機に、古巣の全日本や新日本、その他単発のプロレス興行にも不定期ながらスポット参戦していたが、
2017年に行われた『KABUKI THE FINAL』にて「正式にプロレスラーを引退」とした。
得意技
ギミック・演出という見た目に派手な部分が語られる事が多い一方で、
あまり大技を乱発せずにねっとりとした間のとり方で試合を進める事で有名。
自著やインタビュー等では「大技を連発して自己満足で終わってはいけない」
「観客が見入って感動してくれるように試合を作っていく」と
自身のプロレス観を語った事もあり、こうした考え方に基づいての事である。
毒霧をプロレスに持ち込んだ元祖として知られている。
カブキの場合は主に演出として使用する事が多く、試合中に攻撃として使う事は
そこまで多くなかったが、ムタが攻撃技としての側面を成立させた。
実はこちらもプロレスに持ち込んだのはカブキが最初だったりする。
現在ではつなぎ技として使われる事も多いが、カブキの場合は
間を重視した展開から急に切れ味鋭い技を繰り出すカウンター・フィニッシュホールドとして使用していた。
- アッパーブロー
元ボクサーのサイクロン・ネグロから伝授されたという技。
右腕を大きく振りかぶってから左拳で相手の顎・頬を打つという独特のモーションで繰り出される。
- 正拳突き
正拳突きと言っても空手の正拳突きとは違い、頭上で固めた右拳を相手に向けて振り下ろす
所謂フィスト・ドロップである。セカンドロープの上を綱渡りのように歩いた後に
相手の喉・胸を狙って打ち下ろすというフィニッシュホールドとして多用していた。
- 竹とんぼ式ラリアット
その名の通り両手を広げて竹とんぼのように1回転してから左腕で繰り出すラリアット。
- オリエンタル・クロー
狙う場所は様々だが、カブキのクロー攻撃全般がこう呼ばれる。
指の第一関節にだけ力を入れて曲げるという仕草を度々繰り出しており、
類まれな握力を持つカブキだからこそ出来る指の動きとされていた。