イギリスの危機感
第二次世界大戦後、経済が疲弊したイギリスではRAFへの予算も削減されたが、米ソはナチスドイツの航空技術も吸収し、激しい軍拡競争を繰り広げていた。
1947年、イギリス軍需省は『将来、戦闘機にも転用できる超音速研究機』をイングリッシュ・エレクトリック社、フェアリー社などに提示する。
この仕様は「ER103」と呼ばれ、イングリッシュ・エレクトリック社ではP1、フェアリー社ではFD2が製作され、基礎研究を始めることとなった。
開発
イングリッシュ・エレクトリック社はウエストランド社よりテディ・ペッター率いる設計陣を呼び寄せた。
設計にあたり、実験機ショートSB5が製作された。この実験機はのちのライトニングとよく似た平面形で、主翼の後退角や水平尾翼の位置を差し替えられるようになっていた。
設計はほぼ手直しの必要がなく、操縦性確保のために翼外側に切れ込みを入れただけとなった。
制式採用
1952年、軍需省はライトニングP1の制式採用を決めた。設計変更が加えられ、エンジンの強化が求められた。
試作2号機は実戦装備を施され、1953年には本格的な戦闘機型が発注される。
1954年、ライトニングの最初の試作機が完成。アフターバーナーのない「サファイア」エンジンを搭載していたが、8月4日の初飛行の後、3回目の飛行で水平飛行でマッハ1.2を記録した。
グロスター・ジャベリンが「イギリス初の超音速戦闘機」となった翌年のことであった。
増加試作機ライトニングP1Bが20機発注された。
1956年、最初の戦闘機型ライトニングF1が50機発注された。
最後の独自開発戦闘機
1957年にP1Bの1号機が完成し、4月4日に初飛行を遂げたが、同日に英政府は『有人戦闘機の開発はこれで終了。以降は防空の主力をミサイルにする』と発表した。いわゆる「ミサイル万能論」の影響である。
「ミサイル万能論」はベトナム戦争で否定されたが、当時のイギリスには高額な開発費用を単独で負担するのは無理が大きかった。
結果、BACライトニングはイギリス最後の独自開発戦闘機となる。
技術的特徴
ライトニングの上昇力は後世のF-15やSu-27にも引けを取らず、高高度からの侵入機も難なく追尾することが出来た。
また、デルタ翼らしく運動性も良好で、F-104やミラージュ3にも引けを取らない飛行性能と評価された。
しかし、絞り込んだ胴体に燃料タンクのスペースは少なく、航続距離は短かった。F6では増槽を主翼の上に搭載できるようになったが、空中で投棄することができないので、主に機体空輸用のオプションである。
機首にミサイルを2発搭載する以外に機外搭載量がほとんど無いのも問題で、サウジアラビアへの輸出機は主翼外側へハードポイントを追加している。
縦型双発エンジン
長所
・胴体の形状変化をなだらかにするこができ、空気抵抗を抑えられる。
・もしエンジンが片方止まっても、機体がブレにくい。
短所
・整備の時は高い脚立が必要になり、不便。
・機体の重心が高くなり、離着陸の際は横転しないよう気を付けなくてはならない。
長い主脚
ライトニングの主脚は主翼に設置されているが、胴体が縦長なので主脚も長くなり強度に不安が出る。しかし、パイロット達の評価では十分頑丈で安心できたとされる。
主翼
デルタ翼から空力的に意味の薄い部分を取り除いた結果、後の『クリップトデルタ(翼端を切り落としたデルタ翼)』にも通じる形状となった。
主翼の付け根は意外と長くとられ、見た目よりも強度は高い。
配備
1960年から実戦部隊への配備が始まった。
(同年にイングリッシュ・エレクトリック社航空機部門はBAC社に吸収されている)
西ドイツやキプロス、シンガポールにも展開し、それぞれ防空任務に就いている。
輸出実績
迎撃に特化した機体だったため輸出実績は2か国(クウェート・サウジアラビア)のみで、西ドイツへの売り込みは国の後押しが得られず失敗、日本への売り込みは書類審査だけで退けられてしまった。
退役
1988年4月30日、最後の飛行隊が解散し退役した。