概説
第11代江戸幕府征夷大将軍。
安永2年(1773年)10月5日生まれ。
将軍職54年は歴代将軍で最長で、将軍を退いた後も大御所として実権を握り続けた。
経歴
先代の嫡子が夭折した為に御三卿のひとつ一橋家から養子となり、15歳で将軍になった人物。
その為、「嫡子の死は何かあったのではないか?」と疑われることもある。
若くして将軍となったため、政治は老中たち中枢の幕臣に委ねられ、家斉が成長したのちも執政は幕臣たちに任せて、自身は彼らの政策に判を押すのみという状態が形態化していった。
まず先代・徳川家治時代に権勢を振るった老中・田沼意次を罷免し、紀州・松平藩から名君と名高い松平定信を老中首座に抜擢し、定信主導による「寛政の改革」を施行した。
これによって田沼時代の闇である贈収賄の悪習は抑制された。しかしあまりに厳粛な取り締まりから、徐々に非難を浴びることとなった。これに同調するように家斉と定信の関係に溝が生まれ、一時は老中首座から罷免している。
しかし他に定信と同等以上の辣腕も望めるものではなく、しばらくして側近2名を補佐兼監視として付けて老中首座に復帰させている。
その後も執政は幕臣に委ね、自身は身分としての将軍の責務を果たすことに努める。
ところが定信が逝去し、寛政の改革の立役者たちが引退していくと、水野忠成を老中首座に任じて改革派を次々と排斥し、かつて禁じた贈収賄を公認するようになる。
さらに自身は贅沢三昧に興じ、「異国船打払令」を発して軍費を増加させ、財政破綻を招いてしまう。この立て直しに貨幣改鋳を乱発するが、却って幕政を苦しめてしまう。
天保5年に忠成の後任として水野忠邦が老中首座となるも、実際は家斉肝煎りの側近である林忠英らに主導させ、何の改正もさせず側近政治を続行させた。
晩年に次男・家慶に譲位するが、ここでも家慶の執政に口を挟んで実権を握り続けた。
天保12年(1841年)閏1月7日に死去。
誰にも看取られず、侍医長さえ席を離した間での侘しい死に様であった。
人物
史上もっとも子だくさんの将軍といわれ53人の子をもうけた記録がある(ただし当時の医療水準は低かったので半分くらいは夭折している)。それだけの子宝を儲けただけに、側室に置いた愛妾も特定可能な範囲で16人は判明しており、これ以上になる可能性さえ考えられている。
同時にかなりの健康オタクで、食卓には生姜を欠かさず、「白牛酪」という今でいうミルクキャラメルのようなものを常食していた。オットセイの陰茎の干物を煎じて精力増強剤として服用するなど、特に男性としての健康にはかなり気を使ったという。これらは将軍として江戸に向かう際、「子女を多く儲けて血を絶やさないように」と一橋家から訓戒されたことに由来するもので、単に好色だったからという訳ではない。
評価
為政者としては正直な話、落第点と言い得る。
執政は幕臣頼みで自らは動かず、財政はせっかく立て直したものを使い倒した挙げ句に収賄や汚職を黙認し、引退後も実権を握って専横するなど、かなりやりたい放題していた。
同時に彼の在位54年は江戸時代後期の絶頂期であり、民衆文化として化政文化が華やいだ時期と重なる。つまりどれだけ将軍が盆暗だろうと国勢が安定したほど国力も充実していた時期と言え、家斉の勝手気ままな将軍ぶりも、この時代だからこそ許容できたといえる。
ただし、彼の晩年には天保の大飢饉と大塩平八郎の乱が勃発。アヘン戦争など帝国主義の荒波が極東にも及び始めた。彼の弛緩した施政は幕府崩壊の呼び水として様々な波乱を巻き起こし、幕末から明治維新への大きなうねりを巻き起こす切っ掛けとなってしまった。