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ネオンジェネシスの編集履歴

2021-03-20 19:59:01 バージョン

ネオンジェネシス

ねおんじぇねしす

ネオンジェネシスとは、アニメ映画『シン・エヴァンゲリオン劇場版𝄇』最大のキーワードである。

【注意】この記事には『シン・エヴァンゲリオン劇場版𝄇』のネタバレを含んでいます。




































































































「世界の新たな創生、ネオンジェネシス」


「さようなら、全てのエヴァンゲリオン」


概要

シン・エヴァンゲリオン劇場版𝄇』にてアディショナルインパクトの代わりに起こされたもの。上記のセリフは、ラストで綾波レイが残したものとなる。


新世紀エヴァンゲリオン』の英語表記は「NEON GENESIS EVANGELION」となる。NEONはラテン語で「新しい」、GENISISは英語で「世紀」を意味する。つまりネオンジェネシスは、単純に言えば「新たな創世記・世界のはじまり」という意味になる。


発動までの経緯

碇ゲンドウ人類補完計画を推し進めていたが、それはユイに再び会いたいという個人的な野心によることからであった。この為ゲンドウは、エヴァンゲリオン第13号機ロンギヌスの槍を操り、「アディショナルインパクト」を起こし全人類の魂を肉体化し、ユイと再会することを企んでいたのである。


計画はあと1歩というところだったが、碇シンジは初号機をもってカシウスの槍でそれを阻もうとする。2人は虚構の世界の中で闘うことになり、シンジを後押しする為に葛城ミサトは、AAAヴンダーから新たな3本目の槍である「ガイウスの槍ヴィレの槍)」を作り出した。


ガイウスの槍はユイの中に届き、ユイの意志によって、ユイと13号機をガイウスの槍で貫く。これによってアディショナルインパクトつまり、人類補完計画は失敗に終わる。


そうしてシンジは、代わりにネオンジェネシス(新たな創生)を行ったのである。


発動後の新しい世界

ここからはシンジから見た精神世界が描かれる。シンジは、アスカに対して「あの時は好きだった。」と打ち明け、アスカをあの頃のアスカへと救い出す。続けて、レイカヲルも救い出す。


シンジの妄想ともつかない世界が消えそうになったところへ、眼鏡をとったマリが現れ、シンジを救い出し、何故か最後はシンジとマリが接近してエンディングへと向かう。


その直後、宇部新川駅のホームで大人になったシンジとマリが現れ、マリはシンジの首からDSSチョーカーを解除する。


向かいのホームには、レイとカヲルが2人で一緒に仲良さげに移り、アスカはベンチに座っていた。画面は実写映像に切り替わり、宇部新川駅の上空からマリとシンジを映しながらエンディングとなり、エヴァンゲリオンは完結を迎えた


考察

ラストがマリだった理由

劇場版のテーマ

シンジと深い関係になるであろう人物は、レイもしくはアスカと予想されていたが、何とまさかのマリであり肩透かしを食らったような気分になった人は少なくないだろう。


しかしそれが「ネオンジェネシス(新たな創世記、新世界の始まり)」ということなのかもしれない。ループ説をとらずとも、学生時代に仲良かった2人が別れて、まったく予想もしなかった人と一緒になるというのはごく自然なことなのである。


この劇場版は、「エヴァンゲリオンを卒業し、大人になる」というテーマの元で制作されており、「シンジと他のキャラクター(エヴァチルドレンなど)が、エヴァンゲリオンから解放され、永遠の14歳から大人になり新たな世界と物語を歩む」ストーリーが描かれている。その為、シンジがレイやアスカと深い関係になれば、再び元の物語に戻ってしまうという理由があるのかも知れない。


ラストは、人との関係を避け続けたシンジも大人になり、新たな出会い、新たな世界を創れるようになったということを表現しており、人間の様々な可能性と未来への希望を表現している様にも見える。


「イスカリオテのマリア」と「イエス・キリスト」

イスカリオテのマリア」とは、『シン・エヴァ』作中で冬月コウゾウがマリに向けて呼んだ名称となる。


  • 『エヴァンゲリオン』における「イエス・キリスト

『序』の冒頭で、ゲンドウとユイの会話で、二人の子供の名は「男ならシンジ、女ならレイと名付ける」ことが決められていた。つまり、碇シンジ綾波レイは「互いに別の可能性、表裏一体で、本質的に同じもの・存在」と言える。また、このシーンは『シン・エヴァ』でのゲンドウの回想にも登場している。


新劇場版の世界での元凶と言える「ゴルゴダオブジェクト」の「ゴルゴダ」は、キリストが処刑された地である「ゴルゴダの地」を表している。また、セカンドインパクトの爆心地「カルヴァリーベース」の「カルヴァリー」は、英語で同じく「ゴルゴダの地」を表すものとなっている。


「ゴルゴダオブジェクト(ゴルゴダの地)」は、ゲンドウが「人ではない何者かが、アダムスと六本の槍と共に神の世界を残した場所」だと言っており、「ユイも此処に居た」ことを明らかにしている。これらを考えるに、「綾波ユイは人間ではなく、『神の世界』に住む者」となるのである。


また、ネオンジェネシス発動時にシンジの代わりにユイが身代わりになったシーンで、シンジは「ゲンドウはユイを見守りたく、これがゲンドウの願った『神殺し』であった」のだと理解していた。つまり、「綾波ユイというのは作中における『神』」となる。


これらから、シンジとレイという名にも意味が生まれてくる。シンジとは「神の子、神児」となる。キリスト教には神と神の子との関係を表す「三位一体」という言葉が存在し、1.は「父(父なる神。主たる神)」、2.は「子(神の子・子なるキリスト)」、3.は「霊(聖霊・聖神)」の3つが一体であり、唯一の神である言ったものである。つまり登場人物の名前と役割から考えるに、1(父なる神、唯一神)はユイ、2(神児、神の子)はシンジ、3(霊、聖霊)はレイとなる。


つまり、「三位一体」に準えていれば「碇シンジは、神の子(つまり『イエス・キリスト』)」となるのである。


  • マリア」とは

マリア」は、新約聖書に登場する二人の女性で、「イエス・キリスト」と深い関係にある。

  • 一人は、受胎告知を受け、キリストを産んだ「ナザレのヨセフの妻・聖母マリア」(ただしこの人物は、シンジ(イエス・キリスト)の母親が「碇ユイ・綾波ユイ(神)」と仮定する為、当てはまらないものとする。)
  • もう一人は「マグダラのマリア」(英語でマリアはMaryだが、マリーと表記することもある。フランス語ではMarieで、実際の発音はマリに近いもの。ここではこの人物に焦点を当てて考察する。)

「マグダラのマリア」は、新約聖書に数多く言及される人物で、東方正教会では「使徒」に準ずるもの「亜使徒」(一部の聖人に与えられた特別な称号で、イコールが示すように「12使徒」に匹敵する存在)と呼ばれている。カトリック教会では「罪深き女」(イエスの足に油を注ぐ罪深い女性のこと)と関連付けられており、他の宗派とは若干扱いが異なっているが、1969年に罪深き女やベタニアのマリア等の同一視は訂正された。ただし、その扱いは今でも大衆文化として残り続けている。カトリック教会では、2016年に教皇フランシスコが「使徒の中の使徒」として呼び方を改めている。


「マグダラのマリア」が「亜使徒」「使徒の中の使徒」等の扱いを受けるのは理由があり、それは彼女が「イエスがゴルリダの丘で磔にされた際の目撃者・証人の一人、その埋葬の証人」であるとも語られ、「復活したイエスの最初の目撃者」でもあるからである。


こういったことから幾つかのキリストの伝統では「イエスに最も近く、イエスの教えを最も理解し、イエスが愛した弟子」であると考えられている。


その為、重要なのはイエスが一部の研究者やフィクションの間で結婚していたのではと言われ、彼女は「その候補の筆頭」に考えられている。


ラストの表現からも、シンジ(イエス)とマリ(マリア)の関係は明らかであり、そういった理由からマリは「マリア」と呼ばれる必要があったと考えられる。


  • イシカリオテの」とは

次に「イシカリオテの」は、「イシカリオテのユダ」を表しているものと考えられる。


「イシカリオテのユダ」は、キリストを裏切った12使徒の一人である。新約聖書「使徒行伝」では自らの命を絶ったユダに代わり、マティアスが新たな使徒として迎えられている。これは「12」という数字がユダヤ人社会では意味があったからと考えられているが、使徒とは12人しかおらず、ユダは「12人から外れた使徒」となる。つまり「ないはずの13番目の使徒」となるのである。


つまり「イシカリオテのユダ」は、12人の使徒から外れた「元・使徒」「イレギュラーな使徒」ということになる。


マリの立ち位置は、ゲンドウの呼び方(ゲンドウ君など)・回想シーンから、ゲンドウと同級生、もしくは同年代。また冬月を「冬月せんせ(い)」と呼んでいた為、冬月の教え子とも考えられる。ただし、ゲンドウの作中での年齢は「48歳(14年後は62歳前後)」となる(冬月の年齢は不詳)。


「エヴァの呪縛」があったにしても、『破』の段階で「48歳前後でなければおかしい」のである。しかし、作中では冬月が先生であった時の知り合いであったこと、クローン説としてはゲンドウが一切言及していないこと、また他キャラクターと違い「第4の少女」「ゼーレの少女」と呼ばれていないことを踏まえると、「ネルフに運命を仕組まれた子供ではない」ということになるのである。


  • イシカリオテのマリア

要するに、「マグダラのマリア」と「イシカリオテのユダ」は、「共にイレギュラーな使徒」である。よって、「イシカリオテのマリア」は「ナンバリングに含まれないイレギュラーな使徒」を表しているのである。また、「生命の実」を持つ存在であるため年を取らない。


またこれらにおける裏切りの代名詞は、「人類を滅ぼす存在の『使徒』を裏切り、『人類』の側に付いた存在・イレギュラーな使徒である」ことを表している。


よって、作中でのアダムスの器を吸収したマリは、人類を「リリン」と呼び、アスカとの部屋には大量の本が置かれていることから「知識、つまり『知恵』を欲して」いた。そして、カヲルと同じように「不信と罪の象徴となるDSSチョーカーを外すことができる」存在なのである。


メタ的な視点から

また、シンジ含むエヴァンゲリオンシリーズの主要人物は生みの親である庵野秀明氏の自己投影であると本人から言及がなされてきたが、新劇場版:破が初出となるマリはその自己投影から切り離された外部的なキャラクターである。

これは庵野秀明氏から見た近いし他人=エヴァンゲリオン完結まで支えてくれた周辺のスタッフたちや最愛の妻・安野モヨコ氏の象徴的キャラクターとする見方も出来、円環の理に飲まれてきたシンジ≒エヴァンゲリオンシリーズに縛られてきた庵野秀明氏自身を救い出し、現実≒庵野秀明氏自身の人生へ連れ戻す役割を担ったとする考察も多い。(物語のラストシーンが宇部新川駅=庵野秀明氏の故郷である山口県であることを加味すれば幾らか説得力もある)


旧劇場版との比較

旧劇場版のテーマは「絶望」だとすれば、全てに決着をつけ、過去ですら昇華した新劇場版のテーマは「希望」であり、これが庵野監督がやりたかったエヴァの結末なのではないかという考察が行われている。


新劇場版は、精神世界から新たな世界と現実を描き、予想していなかった結末でシンジとマリの2人に焦点があって終了している。これは現実では、常に偶然の連続で出会いや別れがあって、偶然が必然のような世界であることを伝えている。


一方旧劇場版では、アスカとシンジという学生時代に仲の良かった2人がどこまでも仲良しでい続ける、い続けてほしいという、現実世界ではかえって稀な出来事を描く。シンジが最後に意識のなくなったアスカにいつものようにバカにしてほしいと叫び、ラストでは非日常的な悲劇が描かれていた。


新劇場版と旧劇場版では、新劇場版のほうが、妄想ともメタファともつかない心理描写のような世界が続くのでついていくのが大変だが、現実というのはそういう不可解の連続で成り立っているという矛盾をも描いている。そう考えると、最後のマリとシンジが自然と入ってき、ラストで平凡な日常、希望が描かれている。


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碇シンジ 真希波・マリ・イラストリアス

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