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メジロパーマーの編集履歴

2021-05-24 14:55:30 バージョン

メジロパーマー

めじろぱーまー

メジロパーマーはJRAの元競走馬・種牡馬。1992年最優秀5歳以上牡馬、最優秀父内国産馬(サムネ絵の向かって右側の方)

誘導

  1. 競走馬
  2. 1をモチーフとしたウマ娘プリティーダービーに登場するウマ娘。→メジロパーマー(ウマ娘)

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概要

メジロパーマーは1987年3月21日生まれ、父メジロイーグル、母メジロファンタジー。通算38戦9勝(うち障害2戦1勝)。


父のメジロイーグルは京都新聞杯に勝利し、菊花賞と有馬記念で3着になっているが大レースを勝つことは出来なかった。しかし小さな体(馬体重400キロを下回ったこともあった)をいっぱいに生かした逃げでファンには人気があった。とはいえ種牡馬としての人気はほとんどなく、産駒はメジロパーマー以外に活躍馬はいない。

母のメジロファンタジーは特に競走実績はなく、繫殖牝馬としてもメジロパーマー以外に活躍馬は残せなかった。ただ近親に日本で種牡馬として多くの活躍馬を輩出したモガミ(代表産駒:メジロラモーヌレガシーワールド)がいる。


生涯

1989年8月にデビュー。3戦目で勝利を挙げ、4戦目のオープン特別も勝利するが、怪我でクラシックレースに出走することは出来なかった。


1991年には春の天皇賞に出走、同期のメジロマックイーンとメジロライアンとともに走ったが人気もなく、レースでも全く勝負にならず13着に大敗。その後は条件戦を勝ち上がり札幌記念で重賞初制覇を果たすも、その後が凡走続きで重賞で結果が出ない事が多く一時障害入りする。障害戦では障害デビュー戦では勝利するが2戦目で2着に敗れると、飛越が下手だったことから危険であるという陣営の判断で平地へと戻ることとなった。


1992年、オープン特別で4着になった後、春の天皇賞では新コンビとなる山田泰誠騎手を鞍上に向かえる7着に敗れるが、これ以降山田騎手が主戦となる。続く新潟大賞典を7番人気で勝利し重賞2勝目。続く宝塚記念は13頭中9番人気ながらも逃げ切ってGI初制覇を果たした。とはいえメジロマックイーントウカイテイオー等強いGI馬が大半回避したメンバーだったため、あまり高く評価されなかった。


秋は京都大賞典で始動するが9着に惨敗し、続く秋の天皇賞で同じ逃げ馬のダイタクヘリオスと共に暴走し17着に沈む(ダイタクヘリオスは8着)。そのため宝塚記念はフロック(まぐれ勝ち)と思われ有馬記念では16頭中15番人気と完全に人気を落としていたが、逃げ切ってGI2勝目。史上5頭目の同一年両グランプリ制覇も達成する。JRA賞の年度代表馬はミホノブルボンが受賞したが、この年の最優秀5歳以上牡馬と最優秀父内国産馬の2つのタイトルを受賞した。


1993年、阪神大賞典では前年のグランプリホースにも拘わらず3番人気にとどまっていた。それでも1番人気のナイスネイチャを退けレコードタイムで勝利を挙げた。春の天皇賞ではライスシャワー、メジロマックイーンに続く3着と健闘する。しかし2番人気に推された宝塚記念では10着に大敗。以降は苦戦が続いた。連覇を狙った有馬記念はトウカイテイオーの奇跡の復活の前に6着に終わった。1994年も現役を続行し、日経新春杯で2着に入り久々に結果を出すが、脚部不安のためこのレースを最後に引退し、種牡馬となった。


だが種牡馬としては大苦戦を強いられた。同期のメジロライアンが種牡馬入り当初こそ人気がなかったがメジロドーベルメジロブライトと初年度から2頭のGⅠホースを輩出。メジロマックイーンは産駒は重賞勝ち馬こそ数頭だったが、母父としてドリームジャーニーとオルフェーヴルの兄弟にゴールドシップを出して注目を浴びた。しかしメジロパーマーは種牡馬として全く人気が出ず、産駒も非常に少なかった。その少ない産駒も活躍できず、現在メジロパーマーの血を引く競走馬は日本に存在しない。しかし唯一メジロライデンが京都ハイジャンプ(JGⅡ)を勝利し、重賞勝ち馬の父となった。これにより、パーマーはライアンもマックイーンも果たせなかったメジロ4代重賞制覇を成し遂げた(メジロサンマン→メジロイーグル→メジロパーマー→メジロライデン)。


2002年に種牡馬を引退し、その後はメジロ牧場(現レイクヴィラファーム)で余生を送っていたが、2012年心臓麻痺のため永眠。


評価

メジロマックイーンメジロライアンと共に、メジロ87年組・メジロ御三家と呼ばれた。


武豊騎手が主戦であったメジロマックイーンやクラシック路線から勝ち切れないまでも活躍し人気を博したメジロライアンと違い中々結果を残せず、平地と障害をたらい回しにされた。

しかし、山田泰誠騎手とのコンビとなった6歳以降、大逃げを戦法として確立し、稀代の個性派逃げ馬として名を馳せた。

マイペースで逃げるとどこまでもしぶとく、ライバル馬だけでなく多くの競馬ファンをも翻弄した。首を高く上げて走るフォームが特徴的だったがこれは父メジロイーグルと同じである。


障害レースから平地レースに戻った馬でGⅠレースに勝利した史上唯一の競走馬である(平地レースのGⅠ馬が障害レースに挑んだ例は多い)。この異例の経歴も本馬の特徴として語られることとなった。

障害レースを使ったことで、身体的かつ精神的に成長したためにその後の活躍につながったという声もある。

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