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メジロパーマーの編集履歴

2021-05-26 20:37:05 バージョン

メジロパーマー

めじろぱーまー

メジロパーマーはJRAの元競走馬・種牡馬。1992年最優秀5歳以上牡馬、最優秀父内国産馬。

曖昧さ回避


競走馬「メジロパーマー」

1987年3月21日、当時、伊達市北海道)にあったメジロ牧場で誕生。

鹿毛牡馬

名前はプロゴルファーアーノルド・パーマーから。


父:メジロイーグル

メジロイーグルは京都新聞杯に勝利し、菊花賞有馬記念で3着になっているが大レースを勝つことは出来なかった。しかし小さな体(馬体重400キロを下回ったこともあった)をいっぱいに生かした逃げでファンには人気があった。

種牡馬としての人気はなく、メジロパーマー以外の産駒に活躍馬はいない。


母:メジロファンタジー

メジロファンタジーは特に競走実績はなく、繫殖牝馬としてもメジロパーマー以外に活躍馬は残せなかった。

近親に日本で種牡馬として多くの活躍馬を輩出したモガミ(代表産駒:メジロラモーヌレガシーワールド)がいる。


通算38戦9勝(うち障害2戦1勝)、獲得賞金5億3674万2200円。

主な勝ち鞍は1992年の宝塚記念、有馬記念。

1992年度の最優秀5歳以上牡馬と最優秀父内国産馬を受賞。


後にはメジロ牧場で同期のメジロマックイーンメジロライアンと共に「メジロ87年組」、「メジロ御三家」と呼ばれたが、当初は中々結果を残せず、平地と障害をたらい回しにされた。

しかし、山田泰誠騎手とのコンビとなった6歳以降、大逃げを戦法として確立し、稀代の個性派として名を馳せた。

マイペースで逃げるとどこまでもしぶとく、ライバル馬だけでなく多くの競馬ファンをも翻弄した。


主な戦績

1989年

  • 8月12日、函館競馬場の新馬戦でデビューし、2着。
  • 9月9日、3戦目となる函館競馬場の3歳未勝利戦で初勝利。
  • 9月23日、オープンのコスモス賞に勝利。
  • 11月25日、京都3歳ステークスで8着。レース後に左後脚の骨折が判明し、長期休養に入る。

1990年


1991年

  • 3月2日、休養明けの鈴鹿ステークスで12着。障害への転向が検討され練習を始める。
  • 4月28日、メジロライアン、メジロマックイーンと共に天皇賞(春)に出走し13着。
  • 6月22日、十勝岳特別に出走し1着。500万下クラスへの降格を逃れた。
  • 6月30日、GⅢの札幌記念に出走し1着。重賞初勝利。しかし、その後は精彩を欠く。
  • 10月6日、GⅡの京都大賞典に出走し7着(最下位)。障害への転向が決定。
  • 11月2日、京都競馬場の障害未勝利戦に出走し1着。
  • 12月1日、阪神競馬場の障害400万下戦に出走し2着。飛越が下手で危険と判断され、平地へ戻ることとなり休養に入る。

1992年

  • 3月29日、オープンのコーラルステークスで平地に復帰し4着。
  • 4月26日、山田泰誠騎手を鞍上に迎え、天皇賞(春)に出走し7着。これ以降山田騎手が主戦となる。
  • 5月17日、GⅢの新潟大賞典に出走し、逃げ切りで1着。
  • 6月14日、宝塚記念に出走し、逃げ切りで1着。メジロパーマー、山田騎手にとってGⅠ初制覇。ただし有力馬が大半回避したレースだったため、あまり評価されなかった。
  • 10月11日、京都大賞典に出走し9着。
  • 11月1日、天皇賞(秋)に出走。ダイタクヘリオスとの逃げ争いで超ハイペースを作り出し、失速して17着(ダイタクヘリオスは8着)。巻き込まれた本命トウカイテイオーは7着と初めて掲示板を外し、1着レッツゴーターキン・2着ムービースターの馬連配当は1万7220円となる。東京競馬場は騒然となり、波乱を呼んだメジロパーマーとダイタクヘリオスは「馬鹿コンビ」と呼ばれるようになる。
  • 12月27日、有馬記念に出走し再びダイタクヘリオスと共に大逃げとなったが、最終直線も失速することなく1着(ダイタクヘリオスは12着)。16頭中15番人気からの優勝で2着レガシーワールドとの馬連配当は3万1550円。史上5頭目の同一年両グランプリ制覇を達成。

1993年

  • 3月14日、阪神大賞典に出走。前年のグランプリホースにも拘わらず3番人気だった。ナイスネイチャに馬体を併せられながらもゴール前で突き放し、レコードタイムで1着。
  • 4月25日、天皇賞(春)に出走。ライスシャワーとメジロマックイーンの1着争いの陰で3着に入っていた。
  • 6月13日、宝塚記念に出走。2番人気に推されたが10着。その後も精彩を欠く。

1994年

  • 1月23日、日経新春杯に出走し2着。その後、天皇賞(春)に向けての調整中、右前脚の脚部不安で休養入り。

種牡馬として

1994年9月22日、競走馬を引退。

アロースタッド種牡馬として繋養されたが全く人気が出ず、産駒も非常に少なく、産駒も活躍できなかった。

唯一メジロライデンが京都ハイジャンプ(JGⅡ)を勝利し、重賞勝ち馬の父となった。これにより、パーマーはライアンもマックイーンも果たせなかったメジロ4代重賞制覇を成し遂げた(メジロサンマン→メジロイーグル→メジロパーマー→メジロライデン)。


晩年

2002年に種牡馬を引退し、その後はメジロ牧場(現レイクヴィラファーム)で余生を送る。

2012年4月7日、心臓麻痺のため永眠。


余談

  • 宝塚記念の勝利は馬主すら予想しておらず、メジロマックイーンが出走不可能となった時点でメジロ牧場からの応援観戦は取り止めとなり、阪神競馬場にいたのはメジロ商事社長の北野俊雄のみで、記念撮影は寂しいものとなった。
  • 首を高く上げて走るフォームが特徴的だったがこれは父メジロイーグルと同じである。
  • 障害レースから平地レースに戻った馬でGⅠレースに勝利した史上唯一の競走馬である(平地レースのGⅠ馬が障害レースに挑んだ例は多い)。この異例の経歴も本馬の特徴として語られることとなった。障害レースを使ったことで、身体的かつ精神的に成長したためにその後の活躍につながったという声もある。

関連タグ

競走馬 競馬 JRA

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