森可成は室町時代末の戦国武将。織田信長が織田家の家督を相続した時から一貫して信長に出仕しており、織田信長に従属した時期は佐久間信盛と同じく最古。伊賀の流れ者とされ出自が定かならぬ滝川一益、信長の小姓であった同年代の丹羽長秀、信長が父である織田信秀の後継となる事に異を唱え家督を争った争った信長の同母弟、勘十郎達成(織田信行。以降は織田信行で統一)に味方した柴田勝家、尾張武家の次男、三男である前田利家や佐々成政、同じく出自が定かならぬ木下秀吉といった面々を見るだに、由緒ある清和源氏の家系で美濃の国主、土岐氏に仕えた森可成の出自と経歴は群を抜いている。
具体的に信長へと帰順した時期は斉藤道三によって美濃守護である土岐氏が滅ぼされて以降の様子であり、信長が戦った戦場には例外なく従軍して武功を上げている武闘派。その苛烈な戦い振りから攻めの三左(森三左衛門可成の官職を取って三左)と讃えられる。一方で戦傷で手の指が一本、欠けていた事から、両の手足合わせても指が十九本しかないとの事で十九という侮蔑も受けていた模様。
戦場では関兼常作の十文字槍を自在に振り回す剛の者であったが、武技のみに秀でる人間という訳でもなく信長の上洛後、京にて政務に携わっていた文書も残されている。
信長の家督相続時(尾張統一戦)
うつけと評判の織田信長が家督を継いで、父信秀の代には尾張を完全掌握していた織田弾正忠家ではあったが、此処で織田信秀の風下に立たされていた織田大和守家(清洲織田家。織田弾正忠家は本来、この織田大和守家の家老である)当主である織田信友が信秀の死に乗じて勢力を伸ばし、尾張国守護である斯波義統に下克上を果たして斯波義統を殺害する一大事が発生する。その直後、信長は義統の息子、斯波義銀を擁立して弔いの兵を挙げ、信友を攻め是を滅ぼす(弘治元年。萱津の戦い、清洲城の戦い)。この戦で可成は敵大将である織田大和守家当主、信友の首級を挙げている大活躍を見せている。
その後、舅の斉藤道三が息子である斉藤義龍に矛を向けられるとコレの救援に従事するが、長良川の戦い(弘治二年)で信長の後詰めも功を奏さず道三は討ち死に。その頃には再び織田家でも家督争いが勃発し、信長は斉藤龍興と同盟を結んだ実弟の織田信行と争う事となる。信行と正面衝突した稲生の戦いでは寡兵ながらも兵が奮闘して信長が勝利(余談であるが、信長が寡兵で戦闘にて臨んだ四番勝負の内の一本がこの稲生の戦いである)。無論ながらコレに可成は参戦しているが、柴田勝家がこの戦いで信行陣営の主力として参戦しているのは大きな着目点であろう。
そして尾張下四郡の支配者であった清洲織田家(織田大和守家)を滅ぼした信長に続いて矛を向けたのが尾張上四郡の支配者で織田伊勢守家(岩倉織田家)の当主、織田信賢であり、コレと争った浮野の戦いにも可成は参戦。この戦いに勝利し信長は尾張の大部分を統一するに至る。
しかし実情としてこの時点での信長の影響力は父、信秀の統治時に遙か及ばず(実際に犬山城主、織田信清も反旗を翻していた)、尾張の地盤が定まらぬ間隙を突いて駿河国、遠江国、三河国を治める今川義元が尾張に出兵する。後に云う桶狭間の戦いが開戦するのだが、言うに及ばずこの桶狭間の戦いにも可成は参戦している。驚くべき参戦率である。
この様に森可成は一貫して信長に仕えあらゆる戦場を駆け巡った尾張統一の功労者と云える人物であり、そうして尾張は永禄八年、犬山城の落城で遂に統一されるのである。
美濃攻略から上洛、姉川の戦い
永禄三年、今川義元を桶狭間にて討ち取るも、続く美濃攻略に信長は斉藤義龍を攻めあぐねる。が、斉藤義龍が永禄四年に急死してから跡を継いだ斉藤龍興は織田の進攻を止めるだけの器量が無く、尾張を統一した信長とで天秤にかける重臣らを美濃出身で土岐氏に仕えた伝手から森可成、坂井政尚といった尾張仕え美濃衆が調略に奔走し、斉藤家から離反させる事に成功してゆく。
先ずは中濃、加治田城城主の佐藤右近右衛門を丹羽長秀が調略し織田家へと帰順させる。続いて木曽川沿いの猿啄城を武力攻略し、其処に河尻秀隆(尾張仕えの美濃出身。黒母衣衆筆頭で本能寺の変直前には甲斐国主)を入城させると、加治田城南にある堂洞城も武力攻略。こうして丸裸になった金山城は降伏開城し、其処に森可成を入城させ中濃の攻略を完了する(永禄八年)。織田信長は士卒の権益をそのまま保証する事で中濃の守りを盤石とし、逆に中濃を切断された斉藤氏は東濃の遠山氏を介して武田信玄の支援を受けられなくなり、犬山城の織田信清も犬山城落城と共に甲斐へと逃れ、最終的に西濃の西美濃三人衆(氏家直元(氏家卜全)、稲葉良通(稲葉一鉄)、安藤守就)が永禄十年、信長の稲葉山城攻めに内応し稲葉山城は落城。遂に美濃国も織田信長の統治下に入るのである。
尚、上記の通り永禄八年に森可成は中農にある要衝の金山城(現在の地名は「兼山」)を与えられている事から、その功績の大きさを窺い知る事が出来よう。
足利義昭を奉戴しての上洛では柴田勝家と共に先鋒を務め、三好三人衆や近江国守護の六角義賢らを攻略する(観音寺城の戦い、勝竜寺城の戦い等)。この功で森可成は岐阜と京都を連絡する要衝、琵琶湖西岸の近江宇佐山城城主に栄転。
その後、朝倉攻め(この朝倉攻めで森可成は長男、森可隆を亡くしている)の最中に突如、寝返った同盟国の北近江浅井家浅井長政と正面衝突したかの有名な姉川の戦いにて、通説によらば森可成は織田軍五段目、背後に佐久間信盛、織田信長を置き浅井軍先鋒磯野員昌を食い止める働きを見せる。
三好三人衆、斉藤龍興、細川昭元らの出兵から本願寺決起
姉川の戦いにて浅井長政の首こそ取れなかったものの小谷城の直下である横山城を奪取し、状況的な戦勝を収めた織田信長だったが、摂津国にて三好三人衆、かつて美濃国の国主であった斉藤龍興、細川京兆家当主である細川昭元(細川信良)らが決起すると、信長はこの乱を鎮圧する為に摂津国へと出兵(野田城・福島城の戦い)。信長居城の岐阜城と連絡線を確保する為に森可成は居城、宇佐山城の守備を固めるが此処で本願寺が信長に対して決起する(石山合戦)。更に是に呼応する形で浅井長政、朝倉義景が北近江から進攻を開始し信長本隊の背後を突かんとし(第一次織田家包囲網)、森可成は浅井朝倉連合軍の進軍を阻止して織田信長の退路を確保するべく、宇佐山城を出て坂本口まで進軍する。森可成は信長の異母弟である野府城主織田信治らと合流して九月十六日、街道を封鎖。この地で森可成らは二万を越える浅井朝倉連合軍と槍を合わせる事となる(宇佐山城の戦い)。
街道を封鎖した森可成らの兵数は僅か千ばかりで、しかも主力が信長と共に摂津へと出陣してしまっていた為、戦況は絶望的かのように思えた。が、九月十六日に行われた緒戦では俄に信じられぬ事に、森可成らによって浅井朝倉連合軍は撃退され、局所的な勝利を収めるに至っている(本格的な合戦には進展しなかった模様。本願寺の決起は九月二十日の事でそれ以前に浅井家とも本願寺は連絡を取り合っていた模様で、摂津の戦況を待った可能性はあり。明照寺旧蔵文書より)。しかし石山本願寺の要請で浅井朝倉連合軍に比叡山の僧兵も加わり軍勢は三万人へと膨れ上がり、九月二十日、遂に本格的な合戦へと進展する。この日の戦いでも森可成らは連合軍先鋒、朝倉景鏡を押し返す健闘を見せるが、先鋒を次々と入れ替える連合軍相手に衆寡適せず、遂に森可成、織田信治、青地茂綱(蒲生氏郷の叔父)らは悉く槍下に臥し討ち死にしてしまうである。森可成、元亀元年九月二十日没、享年四八歳。
その後、戦勝に乗って浅井朝倉連合軍は城主、森可成が欠けた宇佐山城も攻めるが、宇佐山城は森家家老の各務元正らが兵を掌握しており、この残兵千名ほどが強固な反攻を行う。また森可成ら戦死の報せを九月二十二日に、折よりの情勢連絡も受けていた信長は摂津国から近江国まで撤兵を九月二十三日に完了させ、翌九月二十四日、森可成が戦死した近江坂本に陣を張り(志賀の陣)、森可成らの文字通り決死の遅滞行動から稼ぎ出した数日間で織田軍は退き口を成功させるのである。信長自身の後詰めで宇佐山城も落城せずに持ち堪え、最終的に森可成らが街道を封鎖した九月十六日から行われた遅滞戦闘で得た貴重な七日間は、こうして辛くも織田家を救った。
森可成の死後、子孫や森家の家督
家督相続時より一貫して従事してくれた有能な臣である森可成を失った信長は大変に深く悲しみ、是が比叡山焼き討ちの遠因に繋がる事にもなった。森可成は近江延暦寺の聖衆来迎寺に葬られたが、比叡山焼き討ちの際は森可成の墓所があるという理由で聖衆来迎寺は戦火を免れている。
尚、晩年の信長の小姓として本能寺にて戦死した事で知られる森蘭丸(森成利)、森坊丸(森長隆)、森力丸(森長氏)は森可成の三男、四男、五男である。森可成の長男である森可隆は元亀元年、朝倉攻めの最中に初陣で戦死しており、次男の森長可は鬼武蔵として恐れられた剛の者であったが、小牧・長久手の戦いで戦死してしまう。
この通り森家は、
氏名 | 家系 | 没年 | 死因 |
---|---|---|---|
森可隆 | 長男 | 元亀元年(西暦1570年) | 戦死 |
森可成 | 父 | 元亀元年(西暦1570年) | 戦死 |
森蘭丸 | 三男 | 天正十年(西暦1582年) | 戦死 |
森坊丸 | 四男 | 天正十年(西暦1582年) | 戦死 |
森力丸 | 五男 | 天正十年(西暦1582年) | 戦死 |
森長可 | 次男 | 天正十二年(西暦1584年) | 戦死 |
と、悉く六名が戦死している凄絶な家系図を持つ。最終的に森家の家督は、最後の男子である森忠政が継いでいるが、森可成の妻で兄弟らの母である妙向尼の悲しみは察してあり余る。
唯、心血を注いだ価値があってと云うべきか本能寺の変以後、最終的に悉く没落する織田家家臣団にあって森家六男で家督を継いだ森忠政は川中島十三万石から美作国十八万石へと栄転しており、家名は明治に至るまで存続する事となる。
森可成に関連する史跡
聖衆来迎寺(滋賀県大津市比叡辻)
森可成の墓所がある。
可成寺(岐阜県可児市兼山)
金山城(兼山城)の麓にある森家の菩提寺。森可成から続く森家兄弟の墓所がある。余談ではあるが兼山歴史民俗資料館には森長可が使っていたとされる人間無骨のレプリカが展示されており、資料も充実して見応えがある。
兼山城跡
森可成が初めて城主になった城の城址。当時の遺構を良く遺し虎口、大手門、籠城用の水の手、横矢を入れる土塁、搦め手や馬出しなどが良く見て取れる。城址自体は近年に整備されたものであるが毎年の桜は見事。森蘭丸(森成利)が浸かったとされる産湯の井戸も有り。