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はじめに

極端にストイック軍事国家として有名。

正式名かつ自称はラケダイモンだが、スパルタの名で有名である。

紀元前600年ころは精強無比な陸軍力にモノを言わせ、ギリシャ世界を暴れまくったが、ライバルのアテナイにペロポネソス戦争で敗北して以降は衰退の一途を辿り、結局紀元前146年にローマに属州として組み込まれてしまう。

スパルタではこれが日常生活……。(レオニダス王時代)

読み方一覧

  • 正式:ラケダイモン
  • 日本語:スパルタ
  • 英語: Sparta
  • ドーリス語: Σπάρτα / Spártā スパルター
  • アッティカ方言:Σπάρτη / Spartē スパルテー
  • 現代ギリシャ語:Σπάρτη / Sparti スパルティー
  • ギリシャ語:Λακεδαίμων / Lakedaimōn ラケダイモーン

『スパルタ』の表記由来

アッティカ方言では『ラケダイモン』のことを『スパルテー』といい、それをギリシャ人が『スパルタ』という表記で『ラケダイモン』を指すようになったため。

概要

ペロポネソス同盟の盟主となりアテナイテーバイなどと覇権を争った。他のギリシャ諸都市とは異なる国家制度を有しておりとくに軍事的教育制度は「スパルタ教育」として知られる。

初期

紀元前10世紀ころに祖先がギリシア北方からペロポネソス半島に侵入し、ミュケナイ時代の先住民アカイア人を征服しヘイロタイ奴隷)にした。

この段階において「スパルタ市民(みんながよく知るスパルタ人→ラケダイモン人)」「ペリオイコイ(市民ではないが、脳筋に代わって経済を回す庇護民および従者たちで構成された民)」「ヘイロタイ(隷農身分の被征服民。成人の儀式のたびにスパルタの子供たちに村を襲撃されるかわいそうな身分)」に分けられる。

この3階層を完全に分離し、徹底させる完全な身分制度・差別主義がスパルタという国家の根幹にある。その中で、スパルタを実質動かしているのはスパルタ市民、すなわちラケダイモン人と他のギリシア人たちから呼ばれた人物たちであった。

彼等は古代(アルカイック)時代には、絵や詩・音楽を嗜むインテリな民族であったことが出土品や当時の記録から明らかになっている。

しかし、リュクルゴスという天才による国家の大改革によって軍事国家として覚醒してゆくことになる。

スパルタに関する記録はスパルタ本国には無く、書物なども発見されていないことから……ほぼすべてがアテナイを筆頭とする他のギリシア人たちによる記録のみを根拠にされた存在である。

書物はおろか、国家すら更地になったため、何も残っていない。唯一“生き様”だけが伝えられていると言ってよいギリシアの民族であり、古代社会だかこそ成立した国家だったのかもしれない。

最盛期

こうしてペロポネソス半島をほぼ蹂躙したスパルタは、紀元前600年ごろにペロポネソス同盟というスパルタを主として、その参加国をスパルタの属国とする軍事同盟を作る。

これは陸軍国家であるスパルタと他のポリスとの間に結ばれる軍事同盟であり、「加盟しているポリスが戦争になった場合、兵や補給を互いに出し合う軍事同盟」であった。

他のポリスからすれば、戦争時には無敵のスパルタ兵が出てきてくれるメリットがある。一方、スパルタからすれば補給や進軍の助けを得た上で、加盟したポリスが邪魔をしないことでメリットとなる。脱退や加盟は自由であるという部分に、陸軍国家としての特色をうかがわせる。

この同盟結成の背景には、新興ポリスであるアテナイの台頭があった。

アテナイもまたペロポネソス同盟に対抗するように、指導者クレイステネスが政治改革を行っていた。

彼はソロン、ペイシストラトスという前任の指導者たちの統治法の良い部分を取り入れた。その結果、ソロンの目指した貴族・平民のわけ隔てない政治への参加と、ペイシストラトスが目指したアテナイ市民の全能発揮と活気ある活用を併せた政体を確立。それに合わせるように、アテナイの国土に行政区(トリブス)を設け、分割・役所を設けた。

これが世界初の直接民主政の誕生である。各行政区で市民たちを管理できたことで、スパルタの2倍もの市民を兵士として動員できる体制がアテナイに誕生していた。

紀元前481年、時のアケメネス朝ペルシア国王クセルクセス1世は自らギリシャ遠征軍の指揮を執り、ギリシャ全土を征服せんと出陣した。

そして紀元前480年8月、スパルタ王レオニダス1世率いるスパルタ市民の重装歩兵300人が、テルモピュレーにおいて(5万とも100万とも言われる)ペルシアの大軍の眼前に立ちふさがり、1週間にわたってペルシア軍と交戦した。

スパルタ軍はレオニダス1世を含む全員が戦死したが、ペルシアもクセルクセス1世の弟2人を含む2万の戦死者を出した。

1年後、紀元前479年のプラタイアの戦いにおいては、スパルタは摂政パウサニアスが率いる1万人(スパルタ市民で兵役の義務がある20歳~60歳の市民をほぼ総動員)の重装歩兵を動員し、アテネやコリントスなどの連合軍と共に戦った。

この時にスパルタ軍はペルシア軍の突撃を受け止めた後、一気に反撃に転じてペルシア軍を蹂躙し、将軍マルドニオスを討ち取るなどの大戦果を上げ、その武名はギリシャ全土のみならずペルシアにまでとどろいた。

ここがスパルタの最盛期とされている。

というのも、ペルシャ戦争後はさしたる戦争も起こらなかったからである。

紀元前400年代には、ペルシア戦争後の好景気と戦前戦中と続けてきた経済政策を担保にして、アテネも経済同盟デロス同盟を組織した。

対ペルシャ用に建造したアテネ軍船を輸送船にして商売を開始。また港街であったピレウス港とアテナイ都市を城壁で結ぶことでアテネの経済を活性化。ギリシア世界(コスモポリタン)経済圏を形成することに成功。これがアテネが200隻の船を使ってギリシア世界中にネットワークを構成して作り上げたデロス同盟であった。

スパルタとペロポネソス同盟には再戦準備行為に映ったために、会議の結果デロス同盟に戦いを挑んだ(ペロポネソス戦争)。

陸軍国家のスパルタと、海軍国家のアテネの戦いはなかなか決着はつかなかった。

アテネは(古代ギリシャには珍しく)市街地を城壁で囲んだ城塞都市であり、スパルタ軍は会戦では無敵であったが攻城戦は大の苦手だったため、開戦当時のアテネの指導者ペリクレスは「陸では篭城戦に徹しつつ、海軍を出動させて海からスパルタ領を攻撃する」作戦で戦おうとした。

これに対しスパルタ軍は毎年夏にアテネ本土のアッティカへ進軍し、そこで農地を荒らし作物を略奪することでアテネ市民を挑発し会戦を挑もうとしたが、効果は無かった。

アテネの城壁はアテネ市街地だけでなく、アテネの港であるピレウス港とアテネ市街地を結ぶ道路をも守っていたため、「ピレウス港とアテネ市街地を結ぶ道路を守る城壁を攻略される」か「制海権を奪われる」かのどちらかの事態が起こらない限り兵糧攻めは不可能であった。さらに元々貿易国家であったアテネは主食の小麦を輸入に頼っていたため、上記の略奪も嫌がらせ以上の効果は見込めなかったのである。

アテネは開戦2年目の紀元前429年に疫病が蔓延して多くの死者を出した上、同年にペリクレスが死去して以後は有能かつリーダーシップに富んだ指導者に恵まれず、戦争終結の糸口を見出せなくなっていった。

また攻城戦も苦手なら自前の海軍も無い(ペロポネソス同盟加盟国の中では最大の海軍を擁するコリントスですら、当時のアテネ海軍に比べれば量と質の両面で劣っていた)スパルタも、毎年夏にアッティカへの略奪行を恒例行事として行う以外にアテネ攻略の糸口を見出せなかったため、戦争は長期化した。

デロス同盟は運命共同体であり脱退が不可能。海軍国家同盟のために、海上輸送などによる経済効果があちらにはあったことが対比される。

また脱退不可能で、後に強権的な振る舞いを行い同盟ポリスを搾取し始める。スパルタのブラシダスに、「デロス同盟からの解放者」という正当化の名目を与えるという皮肉な結果となった。

後にブタシダスは、スパルタ初となるヘイロタイなどで編成された非正規軍を率いて、アテナイの代表的な扇動者クレオンを命と引き換えに討ち取ることになる。

紀元前415年にアテネがシチリア島のシラクサ(シュラクサイ)へ大軍を動員した遠征を行った際、スパルタはシラクサの要請に応じて援軍を派遣し、シラクサ軍と共同で紀元前413年にはアテネ遠征軍を増援部隊共々壊滅させる。

しかし、シラクサに派遣されたスパルタ軍の総大将ギュリッポス(ギリッポス)はスパルタ市民の父と奴隷身分の母との間に産まれた人物であり、その部下たちも今回の援軍派遣に際して特別に武装を許可された奴隷たちであった。

スパルタは序盤において、屈強なスパルタ市民100人余りをアテナイに捕虜にされる屈辱的敗北を経験していた。(スファクテリアの戦い)

厳選に厳選を重ねるスパルタ市民(ラケダイモン人)たちは量産することはできない。少しの損害でも、スパルタ軍にとっては痛手となるのであった。

捕虜は次の勝利で本国に送還されたものの、スパルタ市民の損害を減らしつつ戦いを有利に進めなければならない現実に直面していた。質実剛健をモットーにするスパルタ人にとっては、まさしく苦渋の選択であったと言える。

ギュリッポスの援軍には前例があった。それがクレオンを討ち取ったブラシダスの部隊である。ブラシダス自身はスパルタ市民(ラケダイモン人)としてヘイロータイやペリオイコイの指揮を執っていた。しかし今回のギュリッポスは奴隷との間の子供である。

ギュリッポスは「籠城している城の外に騎兵の基地を何か所も作り、攻城軍の背後を執拗に攪乱」という後年の楠木正成も採用した作戦でアテナイの大軍を翻弄。

このシラクサ攻防戦はギュリッポス率いるスパルタ陣営が圧倒的な優位のうちにアテナイに勝利。アテナイは投入したアテナイを筆頭とするデロス同盟軍と、投入したストラテゴス全員が死亡する大敗北を喫した。

たが、これがスパルタの身分制に亀裂を生じさせる一因となる(古代ギリシャにおいては、兵役義務は参政権と表裏一体である)

シチリアにおけるアテネの大敗の後、デロス同盟加盟国に動揺が走ったため、主戦場はアテネの領域であったエーゲ海(沿岸の町や島の多くがデロス同盟加盟国)に移ってゆく。スパルタはアテネを最終的に屈服させるには海軍が不可欠であると考え、海軍の建設に乗り出すが、この時スパルタは中立をとっていたペルシャと通じて、戦費を捻出してもらうなどの借りを作ってしまう。

この海軍を率いたのは奴隷出身のリュサンドロス。ブラシダス、ギュリッポスに次ぐ最後のスパルタ非正規舞台の指揮官である。彼は諸説あるが、完全に隷農(ヘイロータイ)出身であったとも言われている。そんな彼がペロポネソス戦争を終結させる大勝利を収めてしまう。リュサンドロスはペルシアの王族小キュロスからの莫大な資金援助を元に、艦長や漕ぎ手などの熟練技術者を敵国のアテネから金で引き抜いて海軍を編成した。創設当初のスパルタ海軍は、同じペロポネソス同盟の海運国家コリントから見ても弱小であった。陸軍国家のスパルタに海軍のノウハウなど無かったからである。しかし、リュサンドロスが再編成したスパルタ海軍はアテナイ海軍をヘッドハントしたものである。それはそのまま、アテナイの海軍力を骨抜きにし、身に付けたも同然であった。

紀元前405年のアイゴスポタモイの海戦では、リュサンドロス率いるスパルタ海軍の擬態敗走をみて油断したアテネ海軍の将兵が内陸へ食料調達に赴いた隙を突いて、一気に反転攻勢をかけ、アテネ海軍を完全に壊滅させる大勝利を収めた。海軍を壊滅させられデロス同盟も解体されたアテネは制海権を失い、海上の食糧補給路を断たれて兵糧攻めに陥り、翌・紀元前404年にペロポネソス同盟に対して無条件降伏した。

それまで優勢を誇ったアテネは凋落し、代わってスパルタがギリシア世界の覇権を握り支配者として君臨した。しかし、この覇権はあくまで「軍事」においてでおり、アテネが本当に握っていた「政治」や「経済」といった覇権は引き継がれなかったために、ギリシア世界全体を巻き込んだ迷走がはじまる。

衰退

スパルタがアテナイに勝利した際に、まず行ったのは「アテネの軍縮」であった。(他のポリスの期待していた、デロス同盟で儲けていた金には全く手をつけず配給もされない。)

輸送船に使っていたアテネ軍船を200隻から12隻にまで減らされ、ピレウス港とアテナイとを繋ぐ城壁はスパルタに対する軍事的挑発だとして破壊された。

これにより、アテナイ……ひいてはギリシア世界の経済は完全に破綻した。さらに、この経済を成立させる民主制もスパルタが送り込んだ傀儡政権「30人議会」によって完膚なきまでに破壊される。当然アテナイから学者・政治家・資産家・商人などが亡命をはじめた。残った著名人たちはソクラテスなどを筆頭に次々に粛清されていった。

アテナイはもちろん、経済の中心を失ったギリシア世界に恐慌の風が吹き荒れ、唯一“元々質素だった”スパルタだけ無傷というひどい有様であった。

そのため、他の諸ポリスの市民はギリシア世界で職を失ったためにペルシャへ傭兵として出稼ぎに出かけることとなる。ペルシャから見たギリシア人とは「レオニダス王」などのイメージから「最強の軍人」としてのブランドもあって「傭兵」として働くこととなった。(後のアレクサンドロス大王のペルシア遠征においても、ペルシア軍には多数のギリシア人傭兵が参加していた)

これで職が手に入ればよかったものの、ペルシャ王アルタクセルクセス二世の弟小キュロスの元へ、スパルタ主導で集められたギリシア市民たちは「小キュロスの反乱」に利用されてしまう。

ギリシア軍(だいたいスパルタ兵)は、ペルシャ王アルタクセルクセス二世の正規軍に無双し勝利目前になったものの、雇い主の小キュロスが敗走する兄を自ら討ち取ろうとして突出し、兄の部下たちに返り討ちにされ死亡。

敵国のまっただ中でギリシア兵たちは孤立してしまい、そこから本国へと総撤退しなければならなくなった。(クセノポンの「アナバシス」参照)

なんとかギリシア世界に帰還を果たしたものの……当てにしてた金も雇い主が死んだためもらえず、新しいペルシャ王の親衛隊員というVIP待遇も逃し、職が辛うじて残っていたペルシャからも不信を買ったという現実が待ち受けていた。

紀元前300年代初頭にはスパルタの支配に反発したギリシア諸都市がペルシアの援助の下に対抗したが、その軍事的優越性が揺らぐことはなかった(コリントス戦争)。

ところが、全ポリスに反感を買った状態でペルシャ王アルタクセルクセス二世もスパルタに対して宣戦布告。

板挟みになって、金も信用も持たないスパルタはついにやってはいけないことをやらかしてしまう。

それが「大王の和平」と言われる「アンタルキダスの和約」である。

歴史上は平和条約として描かれているが、その内容を端的に言うならば……

「ギリシャ本土におけるスパルタの覇権を守るために、イオニア地方をペルシアに売っ払う約束」

である。これ以後、困ったら土地を差し押さえたりするスパルタについにキレたのがテーバイだった。テーバイと言えばレオニダス王の「テルモピュライの戦い」や先の「ペロポネソス戦争」などでスパルタ側だったポリスである。覇権を握りきれず、権威を振りかざしながら筋肉だけで威張り散らすスパルタに対して……ついに、腹心ともいえるポリスが離反したのだ。(スパルタが覇権握ってから、ここまで10年経ってません。)

また、スパルタ国内に目をやれば奴隷身分出身の兵士たちや傭兵たちが本来のスパルタ兵たちの世界に首をつっこむようになり……スパルタの身分制度・差別主義政策が徐々に崩れていった。

指導的役割を担ったテーバイがギリシア世界の新たな覇権を狙いボイオティア同盟を組織し、これを打ち挫こうとしたスパルタとの間で紀元前371年の「レウクトラの戦い」が勃発する。

このときスパルタ(ペロポネソス同盟)軍の総兵力はボイオティア同盟軍を上回っており、しかもボイオティア同盟の方はあのスパルタが相手ということもあって士気が低く(特にテーバイ人以外の兵士)、逃亡兵が続出していた。

しかしテーバイの名将エパミノンダスは敵の中核であるスパルタ軍と相対する最左翼に縦深50列の超極厚ファランクス(通常ファランクスの厚さは8〜16列で、このときのスパルタ軍も12列だった)を編成し、さらに斜線陣と呼ばれる戦術で他部隊の接敵を遅らせた。

つまり少数精鋭であるスパルタ重装歩兵を極厚ファランクスで強引に踏み潰し、全面衝突前にある程度決着をつけてしまおうという作戦である。

これが見事に決まり、スパルタ軍は指揮官クレオンブロートス王を含む多数が戦死。

さらに本拠地であるラコニアまで進撃されてしまい、ついにペロポネソス同盟も解体されてしまう。

その後スパルタはしばらく、テーバイの覇権に対抗してアテナイと協力することになる。

紀元前362年には「マンティネイアの戦い」で再びテーバイ率いるボイオティア同盟軍と対峙するが、このときもエパミノンダスの策略によって敗北。

しかしその直前にエパミノンダスを殺すことに成功したため、テーバイにはスパルタと戦える指揮官は残っておらず(エパミノンダスが死に際に指揮権を引き継がせようと何人かの部下を呼ばせたが、彼らもすでに戦死していた)、両国間で和平が結ばれることになった。

紀元前300年代前半になると、国王フィリッポス二世率いる「マケドニア王国」がアテナイやテーバイへの侵略を開始し、アテナイやテーバイはスパルタに協力を申し出るが、スパルタはこれを拒否。

結果、紀元前338年のカイロネイアの戦いでアテナイやテーバイはマケドニア軍に大敗し、マケドニア王国が組織したコリントス同盟の版図に組み込まれた。

皮肉にも、フィリッポス二世は少年時代に人質としてテーバイで過ごしており、その頃エパミノンダスから兵法を学んでいた。

この時代までに、質実剛健をモットーとしていたリュクルゴスの制は実質的に崩壊していたと思われる。第一次メッセニア戦争以降、過度な金銭の流入はスパルタでは禁止されていた。また海への進出も、市民の堕落の恐れがあるとして長らく禁止していたのである。リュサンドロスはスパルタ海軍のトップに君臨し、ペルシャ王室との間に独自のコネクションを持つに至る。その結果、身分制度が崩壊したスパルタにトドメとばかりに金銀財宝などの財を一気に流入させたのである。

質実剛健なスパルタ市民を生み出すためのシステムがことごとく形骸化し、ふみにじられていった。

紀元前334年にアレクサンドロス大王がペルシアへの東征に出発すると、スパルタはペルシアからの資金援助を受けてマケドニアとの戦闘準備を進めた。何しろ当時のスパルタ人は多くがペルシアに傭兵として出稼ぎに出ており、「イッソスの戦い」や「ガウガメラの戦い」においてもスパルタ人傭兵はダレイオス3世率いるペルシア軍の一角を占めていたのである。

イッソスの戦いにおいては王と不死隊を守るように最前線でファランクスを組んでパルメニオン率いるサリッサの部隊と戦った。

そして紀元前331年にスパルタは、イッソスから逃げ帰った傭兵を含めて2万2千の軍勢を集め、(主力はペルシアに遠征中で不在の)マケドニア軍4万を相手に戦うが、時の国王アギス3世を含めて5千人以上の戦死者を出す大敗を喫してしまう・・・(メガロポリスの戦い)。

マケドニアに敗北後、いろいろスパルタも改革を行ったが、結局マケドニア王国→新覇権国のローマ共和国と多々抗戦するもスパルタはことごとく敗北、国家集団の体を失う・・・。というかこの時代のローマ共和国と軍、冷酷非常の超大国皆殺しだから、怖すぎる本当、人間じゃない。そもそもスパルタは手間暇かけて戦士を育てているため、戦争するかどうかは意外と慎重に判断していたのだが、いくらでも兵士をかき集められるローマはガンガン戦争を仕掛けることができたのだ。

そして、紀元前146年にアカイア同盟をコリントスの戦いで破ったのを機に、ローマはスパルタを含むギリシア全土をローマの属州に組み込み属州アカエアとなる、これにより国家としてのスパルタの息の根は止まる(ただしアテナイと共に過去の功績から一定の自治権を認められた)。

社会生活 リュクルゴス

スパルタ市民はリュクルゴス(Lykurgos)といわれる、軍団に基いた社会生活を営んだ。

スパルタ市民(5万人)は基本みな『軍人』であり、家族構成や、社会基盤がすべて軍団の構成員を基準に設置されている。

などがある。

いわゆる『皆兵制度』である。これだけならば、同じ時代の都市国家では珍しくなく、現在でもシンガポールなどの都市国家は皆兵制度である。

しかし、他の都市国家と異なり緊急時の「徴兵」ではなく「常備軍」である点で異なる。

この国家制度を作り上げた者はアルカイック時代のスパルタで伝説的な人物として有名なリュクルゴスである。彼は、前620年ごろ(ギリシアの暦では15回目のオリンピックが開かれた年)に、国家スパルタの改革(Reform)を行った。

王族ではないが、改革を一任される立場にあるったらしいことが伺われる。伝説によれば、信心深いスパルタ人に制度を浸透させるため「法律」はデルフォイの神託によって神々から授けられたことになっている。

しかし、実際は当時の地中海世界に点在するあらゆる国家を訪問し、当時出来うる現実的で最高の制度を時間をかけて構想していったと考えられる。

他のギリシア人と同じく、イノベーションの塊で最新の理論を作り上げまとめあげたのだから。それが、「常勝無敗」の軍隊を作り、そこから「自然と誰も手を出さなくなる平和な国家」という革新的な制度だったのだから。

市民たちの軍治水準を常に保ち、また厳しさのはけ口として意図的な差別階級の設定。議会と王、そしてトップを見張る監督官庁の設置などアルカイック時代における最新最高の政治制度をスパルタに齎した。これ以降、スパルタは能動的な侵略を行わなくなり、「一国護憲国家」として閉鎖的かつ強国としてギリシア世界に名をとどろかせ始める。

さらに、リュクルゴスは「私は旅に出る、それまでこの制度を変えぬように!」と言残し国外で生涯を終えた。

これにより、スパルタ人たちの中で彼の制度は「伝説」となり、厳格に守らなければならないものとなった。スパルタ人の信心深さをうまく扱ったこの最期により、リュクルゴスの改革(Reform)は改革ではなくなった。

これ以降、スパルタ人たちは「法を守る」という言葉を使うようになる。元々あったものを改めるから「改革(“Re”form)」と呼ばれるが、彼はスパルタに存在しなかった「憲法(Constitution)」を与えたも同然であった。彼等スパルタの市民たちのあり方、国のありかた(国体)、それらすべてを独力で作り上げたのであればむしろ制度ではなく……憲法に近い。

彼らは月ごとに、お互いに、監督官たちは国のために、王は自身のために、誓いを交わしあう。王は「国家の現行法にしたがって王制支配せん」というものであり、監督官たちは「汝が誓いを遵守するかぎり、王制を揺るぎないものとせん」というものである。

18世紀の社会契約論以前の古代において、これらの諸制度を完備して法による統治を行う様はまさしく画期的であった。(クセノポンの『ラケダイモン人の国制』より)

だが、この制度はスパルタ人たちの中で半ば信仰と化しており……改正は不可能であった。このことが、アルカイック時代を抜けて古典時代に入ると明確に現れてくる。

またスパルタには「泥棒」居ないことで有名であった。必要最低限の物しか生産せず、また調達しない。質実剛健をモットーとするスパルタ人は贅沢を排し、貨幣も「鉄貨」を使っていた。古代において金や銀の貨幣が使われた時代に、これでは輸入もままならない。トップが贅沢をしないことで盗むものがそもそも存在しなかった。

ただし、全く居なかったかというとそうではないがほぼ存在しなかった。

盗む理由がほぼ「必需品の欠如」であった上に、バレることは恥とされたからだ。国から適度に必需品が配給されるため、ほぼ泥棒の事件は発生していなかったのは事実であるらしい。

食料などの盗みをするのは、基本的に20歳の成人の儀式の際にヘイロタイのもとへ解き放たれたサバイバルのときだけであった。この場合、いかなる劣悪な状況でも生き残ることを教育するための課程であるために、若いスパルタ市民たちはヘイロタイの食料を奪ったり殺したりした。(当然、反撃されて死亡するスパルタの若者たちも居た訳ですが……。それでヘイロータイは処罰されない。やはり隷農も強きものが生き残るのがスパルタなのか…)

文化・風俗

おしゃれについては、装飾品は禁止である。しかし「髪」だけは例外的にOKであったとされる。

スパルタ人はしばしば長髪の姿で絵に描かれる。これは兜がズレないように密着させる役割としては不合理であり、髪の手入れが彼等の娯楽だったのではないかと考えられている。とはいえ髪に規制が全くなかったわけではなく、男が髪を伸ばすのを認められるのは20歳からで、髭を伸ばすのは30歳から許可された。おしゃれが許されるのは一人前の男のみということか。

また娯楽になりえたものに音楽がある。

スパルタは軍事国家となる以前の時代においては、絵画や詩・音楽などの芸術が盛んであった(出土品と当時の記録から確からしい)。

フォアゾクラティカー(ソクラテス以前の哲学者)の中にギリシア七賢人のキロン、吟遊詩人のアルクマンが居るが彼等はスパルタ出身である。

文字や絵などは最低限のものを除いて衰退したが、音楽活動は軍事国家となったあとも活発であり、軍楽隊や少年合唱なども行っていた。

プルタルコスの『ラケダイモン人たちの古習』には以下のように書かれている。

さらに、音楽や歌についても彼らは誰にも劣らず熱心であった。

これは、情熱や精神を目覚めさせ、神がかり的で活動的な衝動を奮い立たせる刺激を有していた。文句も平明にして気取っていない。しかも、その内容たるや、他でもない、生き方が高貴だった人々、すなわち、スパルタのために死し、幸福視されている人たちに対する称讃と、腰抜けどもに対する、痛ましくも悪霊に憑かれたような生を生きる者という誹謗。勇徳に対する〔それぞれの〕年齢層にふさわしい公言と自負である。

例えば、合唱舞踏隊は三つの年齢層に対応して三つあって、祭礼のさいに組織されるが、老人層の〔合唱舞踏隊〕が最初に歌った〔Poet. Lyr. Graec. III. p. 661, or Diehl, Anthologia Lyrica Graeca, II. p. 197〕

  われらかつて剛勇の若者たりし。

すると、盛年にある男たちの〔合唱舞踏隊〕が入れ替わって

  されど、われらこそ〔今は〕それなり。望みとあらば、ためしてみよ。

そして三番目に子どもたちの〔合唱舞踏隊〕が

  されど、〔今に〕われらはるかに強者とならん。

さらに、進軍歌のリズムも勇気と大胆さを鼓舞し、死を軽んずるもので、これを彼らは合唱舞踏のさいにも敵に向かって進撃するさいの笛〔の音〕にも適用した。

というのは、リュクウルゴスは軍事訓練に音楽愛を連結させ、戦争に対する歓愛が旋律の中に混入されていて、それが協和と調和を有するようにしたのである。それゆえ、戦闘に際して王は芸神たちにまず供犠したが、それは、戦闘者たちが戦闘行動を、語るに値するもの、聞こえも高く記憶に値するものにするようにさせるためであった。

だから、古来のこの音楽を少しでも逸脱する者があれば、彼らは容赦しなかった。

じっさい、テルパンドロスでさえも――同時代の竪琴唄いたちの中で最も古く最もすぐれた人であり、英雄たちの行為の称讃者であったにもかかわらず――、監督官たちはやはりこれを処罰し、彼の竪琴を持っていって釘付けにしたが、それは、彼が音声の多彩さを狙って、腸弦をたった1本余計に張ったからであった。すなわち、彼らは単純な旋律しか認めなかったのである。またティモテオスがカルネイア祭で競ったときも、監督官の一人が戦刀をとって彼に質問した――7本の腸弦よりも多いのを、どちらの側のを切断すればいいか、と。

 前670年ころ活躍。レスボス島アンティッサ出身と伝えられる。前676/3年に創始されたスパルタのカルネイア祭で、竪琴吟唱家として初めて優勝。竪琴の弦の数を1本加えて7本にして、8度音まで出せるようにしたという。

 前450頃生-360頃没。ミレトス出身。後期ディテュランボス歌の作曲において指導的な役割を果たした。

クセノポンの『アナバシス』にも、アテナイとピレウス港を繋ぐ城壁を破壊する際に、盛大な音楽を鳴らして行っていた様が描写されている。

食文化

有名なのはメラス・ゾーモスという『黒いスープ』だろう。詳しいレシピは失伝しているが、豚の血(現代でも国によってはポピュラーな食材である)、豚肉、酢、胆汁を使ったスープ料理である。「現代人の口には合わない料理も、古代人にとってはご馳走だった」というパターンはあるが、このメラス・ゾーモスについては当時からゲロマズ料理として名高かったようだ。

シラクサのディオニュシオス1世がスパルタ人にこのスープを作らせて食してみたが、あまりの不味さに吐き出してしまったという話が伝わっている。そのスパルタ人奴隷は「スパルタ兵のように鍛錬して川で沐浴してから食せば美味しく召し上がれます」という趣旨の発言をしたそうだ。

そもそも材料に胆汁を入れているのはわざと不味くするためらしい。平時には不味い食事ばかり食べさせ、戦争のときにだけ美味い物を食べさせることで、スパルタ兵は常に戦争を待ち望むようになったのである。

女性の権利

また、スパルタ人は女性の権利が高かった点でも有名である。

スパルタの女子は「強健な戦士を産む」為に存在しており、少女時代から体育に励み、出産で命を落とした産婦は英霊として戦死者同様の扱いを受けた。

当時、女性の権利が高かった地域は他にイタリア半島のエトルリア諸国が挙げられる。スパルタは国民皆兵の軍事国家だったのに対して、エトルリア諸国は「平日は勤勉に働き、祭日は思い切り楽しむ」と真反対とも言える文化を有していたが、「女性を一人前の市民として認める」「若い女子の体育を奨励する」点は共通であった。

被征服民への過酷な扱い

スパルタはギリシャ諸都市の中でも、アルカイック時代において群を抜いて『侵略的』だったので、当時のギリシャ世界においてはかなりの『領土』を持つ国家集団であった。

そして征服した住民への支配も苛烈を極めた。

まず奪った土地はスパルタ市民(約5万人)に均等配分され、約15万人とも25万人ともいわれるヘイロタイは、奴隷の身分から解放されることも移動することも許されず、土地を耕す奴隷よりマシな農民以下の生活を強いられた。

ヘイロタイ(単数ではヘロット)は参政権が無い点ではペリオイコイと同様であり、職業選択の自由と、身分の変更ができないことではスパルタ市民とすら同様であった。

しかし、被征服民という民族問題・文化摩擦を抱えるスパルタ国内において、彼等はたびたび叛乱を起こし内政の悩みの種となっていた。

これも、スパルタが対外戦争に慎重だった理由の一つと考えられる。国内にこのような不安要素を抱えていては、正規市民からなる兵力をむやみに遠征させると「鬼の居ぬ間に洗濯」とばかりにヘイロタイが反乱を起こす危険があるからである。

そのため、ヘイロタイに反乱の兆しが見られると、クリュプキアと呼ばれる処刑部隊が夜陰に紛れてヘイロタイの集落を襲い、住民を虐殺して回った。 そして住民の遺体は見せしめに街道に張り付けられた。

また、スパルタにおける成人のための試練とは「ヘロットたちの村に裸で追い出され、その首を持ち帰ること」で達成されるとすらされた。

スパルタという国家の内部に組み込まれながら、彼等の扱いは劣悪であった。

この扱いは、普通の奴隷とは一線を画す存在である。

国内の落伍者や、外国から購入した労働力を「奴隷」と呼ぶ。翻訳の上でも表記がシッカリしなていないものが多い。

彼等は奴隷として看做すと、居住の自由など一般を認められており奴隷というよりは農民であるが……、農民として見ると国家規模の差別を受けているために「民」というには劣悪である。「農奴」あるいは「隷農」と訳すのが適切と思われる。

奴隷という翻訳の誤った用法には、しばしば中東の「マムルーク」や、「スルタンの奴隷」と呼ばれる訳を与えられるイェニ=チェリがあり……人名においても“アブド”を「しもべ」ではなく「奴隷」と訳すものが多い。昨今の我々が想像する奴隷像とは、近代のアメリカにおいて発生した黒人奴隷問題に端を発するものが大きく、プロパガンダが一部混ざっていることに留意が必要である。古代における奴隷とは、“体は大人だが、一人前になっていないために所有されている状態”を指すことが一般的である。

他のギリシア諸都市に見られないその過酷なこの制度は、国家がヘロットを厳格に管理するものであり、私有奴隷はほとんどいなかった。(裕福さを排除していたのもある。)

このため、他のギリシア諸都市に見られた私有奴隷の過剰増加による(奴隷制度に安住した有閑階級の肥大・増加の弊害でもある)技術力や労働の質などの低下による衰退がある程度抑えられた面もある。

また過酷な面を強調してきたが、「住居の自由」「土地所有の自由」そして収穫の「半分」をラケダイモン人に提供すれば、成人の儀式以外で彼等を脅かすものは少なかった。

これらの点から、完全な奴隷とも言えないことが明らかであると理解できると思う。奴隷というよりは、差別された階級程度のことであり……これを近代の黒人差別問題と混同した結果「奴隷」と呼ぶだけであろうと思われる。

双頭元首政

国政においては2人の世襲の王が並立し、その権限は戦時における軍の指揮権などに限定されていた。2王家はそれぞれアギス家エウリュポン家という。

スパルタの統一過程で採られた妥協の遺制と思われる。

ペルシア戦争のテルモピュライの戦いで有名なレオニダス1世はアギス家の王である。

王政政治のことをギリシア語で「モナルキア(一人の統治:王政)」と呼ぶが、スパルタには2人王が居たため「ディアルキア(2人による統治)」と呼ばれた。

戦争を常としていた、アルカイック期のスパルタにおいて王の崩御は国家崩壊に繋がる。そのため、たとえ一人の王(司令官)が崩御したとしても、即座に新たなリーダーを派出できるように機能していた。

だが、王がすべてを支配し強権による圧政を強いていた訳ではない。

スパルタには王による権力の暴走を防ぐために、リュクルゴスの制を守護させるべく「監督官(エフォロイ)」と呼ばれる役職が存在し、これを厳格に管理していた。

スパルタの民会から選出される30代以降のスパルタ市民5人から構成される役職であり、彼らは王が戦争に専念できるように他の執政業務を請け負うことがしばしばであった。

そのため、王の政治はもっぱら戦争や戦略などの軍務に限定され、他の内政と外交等の業務は彼ら「監督官(エフォロイ)」が請け負っていた。

アテナイや他国の政治家が、スパルタを訪れた場合に最初に面会するは彼等である。

それだけでなく、仮に王が暴君となった場合国そのものが滅びてしまう。「監督官(エフォロイ)」は常に王を監視し、もし怪しい動きを見せれば王を告訴し死に至らしめることすらもあった。(プラタイアの戦いのパウサニアス王子が有名)

実はスパルタは双頭元首政と呼ばれながら民会や長老会(老齢のスパルタ市民が少ないため形骸化したが)、監督官といった「議会」が存在する。加えて、リュクルゴスの制を不文法とし、王の権力の暴走を抑える「立憲君主国家」に近い制度であったのだ。

アテナイの「民主政治」に勝るとも劣らない、政治制度を有していたと解釈することもできる。

このスパルタに類似した構造を持つ国家制度は、王政ローマの後あらわれる共和制ローマの政治体制であろう。トップが常に2人の執政官(王の代わり)となり、上院として元老院、下院に民会が存在する構図は形だけ見れば非常によく類似している(もっとも、ローマはギリシア世界を査察した後で作り上げているために、その政治機構はより進歩的なものとなっている)。

しかし、これら一連のリュクルゴスの制は「アルカイック期のギリシア」を前提に作り上げられたものである。新たな勢力、時代の流れであるアテナイが登場する「古典(クラシック)期」のギリシアにおいては次第に自家中毒をおこしてゆくに至る。それが一気に噴出したのが皮肉にもペロポネソス戦争後に、ギリシアの覇権を握った直後であった。

スパルタ教育

現代日本では厳しい教育一般について、比喩として「スパルタ教育」と呼ばれることがあるが、この言葉を教育論として執筆・推奨したのは、あの石原慎太郎である。

現代ギリシャでは県庁所在都市。

前述の通り、古代ローマに併合されてからも、過去の功績から一定の自治権を認められたスパルタは、オスマン帝国を経てギリシャ共和国となった現代でも、スパルティ市の名でラコニア県の県都となっている。世界地図によっては、英語読みに従い「スパルタ」市と表記する場合もある。

県庁所在都市と言っても、人口はさすがに最盛期のスパルタ市民の総人口より少なく、2018年4月時点で4万人にも満たない。

関連タグ

300:スパルタを舞台にしたアメコミ/映画

ゴッドオブウォー:主人公クレイトスがスパルタ出身。

スパルタン(spartan):「スパルタ市民」に由来する英語で、「剛健な」という意味。

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スパルタの編集履歴2022/03/31 22:47:41 版