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XB-70の編集履歴

2022-05-28 23:32:25 バージョン

XB-70

えくすびーななじゅう

アメリカのノースアメリカン社が開発した試作超音速戦略爆撃機。アラスカ~モスクワの往復爆撃を実現し、空前絶後のマッハ3を発揮する。しかし開発中にICBMの方が有効とされたため開発は中止となり、最初の2機はそのまま試験機として完成し、NASAなどで試験機として用いられた。

目指すはモスクワ

1954年、戦略空軍長官に就任したカーチス・ルメイは

『アラスカ~モスクワを無着陸で飛行できる爆撃機開発計画を提唱する。


これに対し、ノースアメリカンとボーイングが開発案を提出。

2つは比較審査される事になった。


ところが、その開発案は爆撃機の両翼に、特大の燃料タンクと主翼の延長を継ぎ足したものだった。

アラスカからモスクワは遠く、要求仕様を満たすためには

『目標手前まで亜音速で飛行、そこからは燃料タンクを切り離して超音速に加速する』

という離れ業が必要とされたのだ。


当然、ただでさえ巨大な機体は度を越して巨大なものとなり、

ルメイは『これでは3機編隊だ!』と怒って計画書を突き返したという。


ウェイブライダー

この問題を解決するヒントはNASAからもたらされた。

これは『デルタ翼機の下部にクサビ型の突起を設置する』というものである。


そう、超音速の衝撃波の上に機体を乗せるのである。

この理論は「コンプレッション・リフト」と呼ばれ、超音速を維持するパワーは変わらないものの、

機体に揚力が補助されるため、主翼の空気抵抗を抑える事が出来るのだ。

(主翼の揚力で機体を支えなくてもよい=主翼は小さくても良い=空気抵抗や機体重量を減らせる)


有人爆撃機の敗北

・・・と、ここで一つの問題が持ち上がった。

爆撃機ICBMよりも優秀なのか、と。


1957年、ソビエトが人類初の人工衛星「スプートニク1号」の打ち上げに成功。

これは弾道ミサイルの発射成功と同義である。

核兵器の投射手段として利用されることが予想された。


これはアメリカでも『スプートニク・ショック』と呼ばれ、

『今度はミサイルが万能になるのではないか』という風潮が生まれた。(ミサイル万能論

ただし、冷戦の軍拡真っ最中にあっては、ルメイら軍拡派が主導権を持っていた。

つまり『爆撃機も有効である』という意見が優勢だったのである。


これを突き崩したのがロバート・マクナマラである。

詳細はF-4F-111といった別項を参照してもらうとして、

彼は軍事費の大幅抑制を目指したのだ。

当然、莫大な費用がかかるB-70計画も槍玉にあがった。


結果、B-70は『ICBM程の費用対効果を得られない』との結論が出た。

最高速度のマッハ3では、ほとんど真っ直ぐにしか飛べないのだ。

これではICBMと大差が無い。


「高高度飛行で防空網をかわす」という意見も、1960年のU-2撃墜事件で無意味となった。

結局B-70量産計画は中止され、随伴護衛戦闘機「F-108」の開発も中止された。


RS(Reconnaissance-Strike):偵察・爆撃

ちなみに、その後B-70は『偵察と爆撃を兼ねた機体』こと「RS-70」としても提案された。

だが結局はロッキードの「RS-71」が採用される事になったのでお蔵入りとなっている。

(余談ながら、RS-71は時の大統領の言い間違いによってSR-71として知られるようになる)


群青の空を超え・・・られなくて

しかし、人類未踏のマッハ3を調査するため、試作機と原型機3機の開発は継続された。

(試作機YB-70は後に開発中止)

時あたかもSR-71の登場前。

人類初のマッハ3級実験機として期待された。


・・・と、ここで膨大な開発予算を要する開発計画が裏目に出た。

本来はF-108と併せて開発される機体だったのだ。

特にエンジンはB-70と共通であり、この中止はエンジン開発に大幅な遅延をもたらした。

(併せて開発=開発期間・費用の削減)


減らされた予算と人員では余計に開発が遅れ、

完成はSR-71(当時はA-12)よりも後になってしまった。

「初めてのマッハ3」という栄誉までSR-71に奪われてしまい、XB-70はすっかり影に隠れてしまった。


なお、XB-70はNASAで実験機として用いられた。

実験の中には『超音速輸送機(SST)開発計画』のためのデータ収集もあった。

(SST=Super Sonic Transporter)

ここで収集されたデータが分析され、『SSTは不経済で非効率』という結果が出るのだが、

それはまた別の話である。


ヴァルキリー

この名称は公募で決定したものと言われている。

応募総数は20235通と言われ、「ヴァルキリー」の名称はその中でも抜群のトップ・・・


・・・では無さそうだ。(「ヴァルキリー」の得票総数は13通)

どうも公募キャンペーンそのものがアリバイ臭い、と言われている。


余談だが、日本では本機の模型等が登場する前に『超時空要塞マクロス』版権を持つビッグウエストが「VF-1 バルキリー」を商標登録してしまったため、何の関係も無いXB-70の模型にビッグウエストの商標権シールが張られると言う珍事が発生した

なお『マクロス』の主人公の部屋には本機の模型が飾られていた。


ともかく、完成時は既に実験機として使われることが決まっていたので、

完成した2機はそのまま実験機として用いられた。


1号機は1964年5月1日完成、9月21日初飛行。

2号機は1965年5月29日完成、7月17日初飛行。

時はベトナム戦争只中の出来事だった。

なお、2号機は何かにつけて調子がよく、実験などには多く使われたという。


ラグナロクの時へ

1968年6月8日、XB-70はエドワーズ空軍基地周辺の訓練空域においてGE社のCM撮影に協力。

しかし、その撮影終了後に編隊を組んでいたF-104Nと空中接触、

F-104Nはあっという間に火球と化して墜落した。


XB-70はしばらくそのまま飛行していたが、

接触で垂直尾翼が両方とももぎ取られたので、機体は操縦不能になった。


結局XB-70は回復することなく墜落した。

訓練中だった副操縦士は脱出できず、機と運命を共にした。

やっとの事で脱出した操縦士も重傷を負い、後にXB-70に乗る事は無かった。


そして、F-104Nの操縦士の遺体(と思しきもの)はとうとう発見されず、

この事件での死亡者は2名となった。


晩年

この事故で墜落したのは2号機である。

残った1号機は、その後NASAに引き取られて上記のSST計画などに参加したという。

そして1969年2月4日、1号機はライト・パターソン基地に最後の飛行を行った。

着陸後、1号機は空軍博物館への11kmを陸路で移動し、こうして最後の旅を終えた。


現在、XB-70はデイトンの空軍博物館で展示されている。

かつてソビエトと隆盛を競い合った姿を、屋内展示場で見る事が出来るという。


関連タグ

軍用機 実験機 爆撃機 XF-108

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