火垂るの墓
ほたるのはか
概要
1945年の兵庫県神戸市近郊を舞台に、神戸空襲で母を亡くした幼い兄妹が終戦前後の混乱の中を必死で生き抜こうとするも、思い叶わず悲劇的な死を迎えていく姿を作者の実体験を交えながら描き、野坂は『アメリカひじき』とともにこの作品で第58回直木賞を受賞した。
アニメ作品は1988年4月公開で、同時上映は宮崎駿監督の『となりのトトロ』。原作をほぼ忠実に再現しているが、後半部分の演出にオリジナル要素が見られる。当初『となりのトトロ』と共に60分の予定だったが最終的にはどちらも90分となり、質を落とさないためにも高畑は公開延期を申し出たが叶わず、1988年4月の公開時点では未完成のカットが残ったままとなった(のちに差し替え)。
ストーリー・テーマ性・映像表現ともアニメ作品としては非常にヘビーであり、それゆえにこの作品で、自身の心に色々とトラウマを抱えてしまった人たちも多い。
開始15分での空襲による惨劇、世知辛すぎる世間と引き取り先の家庭、そして幼く無邪気な節子の悲しすぎる末路……。平和ボケした現代人に戦争の悲惨さを伝えるには充分すぎる力があり、半端な覚悟で見るのはあまりお勧めできない。
主な登場人物
本作の主人公で14歳。
空襲で家を焼け出され、妹と共に西宮の親戚の家に行くが、叔母と折り合いが悪く妹と共にその家を出る。
清太の妹で4歳。
清太と比べて家族と過ごした期間は少ないが、母の言葉や着物の事は覚えていた。
野坂と義妹について
清太と節子のモデルは、原作者である野坂自身とその義妹である。
野坂は、ひもじさに耐えられず、つい義妹に与えるべき分まで自分で食べてしまっていたことや、義妹の存在を負担に感じていたことなどを告白し、「自分は清太のように優しくなかった」と、痛切な悔恨の情を語っている。
- 義妹は当時1歳と節子よりさらに幼い赤ん坊であり、野坂の苦労は清太より大きかっただろうことが察せられる。終戦二日目、乾パンと金平糖が配給されたが義妹は当然そのままでは食べられず、色々と工夫して与えたものの次第に衰弱し、その後1週間ほどで亡くなったという。
テーマについて
本作を観賞してだれしも感じるのは、戦争の時代の中で兄妹を襲う運命の悲しさだろう。しかし、高畑勲監督によると、本作は反戦映画では無いといい、兄妹二人だけの世界に閉じこもって周囲の大人に頼ることを拒絶し、自滅していく清太の姿は現代の若者に通じるものだと解説している。事実、作中では何度か叔母を通して社会と繋がる手段が提示されているが、清太はいずれも拒否してしまっている。そのため必要な情報などが得られず、結果として兄妹は死へと追い込まれていく。
ただし高畑監督は「清太たちの死は全体主義に逆らったためであり、現代人が叔母に反感を覚え、清太に感情移入できる理由はそこにある」とし、「いつかまた全体主義の時代になり、逆に清太が糾弾されるかもしれない。それが恐ろしい」とも語っている。
作品世界に多面的な解釈を許す奥行きがあり、鑑賞者の成長に応じて様々な見方ができる点も、本作が傑作であるゆえんである。
作中の設定について
本作の設定について、宮崎駿は「海軍の互助組織は強力で、士官が死んだらその子供を探し出してでも食わせるから有り得ない話(意訳)」と軍事マニアの視点から野坂を批判している。
- この点を想像により補完するなら、戦争末期から終戦の混乱期にそのセーフティネットが機能せず、清太と節子は不運にも、わずかに空いた穴から転げ落ちてしまった、と解釈するのが妥当だろうか。
- なお作中に登場する重巡洋艦「摩耶」は、神戸造船所生まれ、神戸市内の山である摩耶山の名前を命名された生粋の神戸っ子である。
作中の描写による考察の例
叔母の家での清太の態度について
叔母の家に身を寄せた後、清太がろくに手伝いもせずだらだらしている姿が、作中の叔母だけではなく視聴者からも非難されることが多い。
ただしこの時の清太は、節子を連れて命からがら空襲から逃げ延びた直後であり、さらに母親を失っている。無気力に陥っても仕方のない状態であり、いわゆる「PTSD」の症状が現れていたとも言える。
原作者で清太のモデルである野坂本人も、空襲の恐怖と折り合いの悪かった養父母から逃れられた開放感から、頼った先の家ではだらだら過ごしていたと述べている。
清太の貯金について
作中で清太は、母親から「万一の時のために」と、大金の入った銀行口座を託されている。
物語のクライマックスで、清太は節子に栄養のある食事を与えようと、この金を下ろして食料を買うために走り回る。しかし彼が壕に戻ってきたとき、節子の命はすでに消えようとしていた。
この場面に対し、視聴者からは「なぜそれまでに金を使って食料を買わなかったのか」と疑問に思う声がよく聞かれる。
その答えは昭和15年以降、主要な食料は世帯ごとの「配給制」で、米は「米穀通帳」、塩、砂糖、味噌、醤油や卵などは「配給切符」がなければ購入できなかったためである。
- しかも徴兵によって働き手を失った農村では食料生産が需要に追い付かず、さらに軍への食糧供給を優先したため、配給制度は次第に破綻をきたしていく。切符があっても肝心の配給所に食料が無いという事態が発生し、市民は飢えの恐怖とも戦わなくてはならなかった。
清太が食料泥棒をしたのも、まともな手段では食料を手に入れられなかったこと、また「万が一」のためのお金を使うことに躊躇したことに理由がある。
ではなぜクライマックスでは食料を購入できたのかというと、非正規のルートにより、法外な価格で販売されていた、いわゆる”闇物資”が存在したからである。いよいよ自分たち兄妹が、餓死の淵にいることを悟った清太は、今こそ「万が一」のときだと考え、大切な預金に手を付けたのだ。
清太と節子が死亡した戦後の混乱期には、引き続きこの配給制が取られていたが、遅配・欠配が当たり前で、都市部では餓死者が続出していた。時の大蔵大臣、渋沢敬三が「1000万人の餓死・病死者が出る」とUP通信に危機を訴えたのがこの年1945年(昭和20年)の10月、裁判官としての立場から闇物資を拒否し、配給食糧のみで通した山口良忠が餓死したのが1947年(昭和22年)10月11日の話である。
- 原作では『金はあれども闇(市)で買う知恵はない』と記述されており、闇市の存在を知らない、あるいは知っていてもそのような非合法の手段に頼るのは海軍士官の息子という矜持、彼自身の正義感が許さなかったとも考えられる。
なお、戦後のハイパーインフレを抑える策として預金封鎖・新円切り替えが実施されたのは昭和21年2月17日であり、清太たち兄妹の件とは関係がない。清太が死亡したのはその約半年前、昭和20年9月21日のことである。
ネタ
節子、それドロップやない…おハジキや
どういう経緯から発生したのか…「節子それドロップちゃう、おはじきやっ!!」…という清太の悲痛な台詞を、パロディにして諸所でネタにされることが多くなった。
ボケに対する一種のツッコミであり、よく似た何かを勘違いしているパターンで使われる。pixivのタグでも散見され、またニコニコ動画などの視聴者コメントでも寄せられることが多い。
ちなみにアニメでの原文は「これおはじきやろ、ドロップちゃうやんか」である。