概要
ソ連軍の1943年後期・44年前期攻勢
1943年7月にクルスクで行われた一大決戦の後、ソ連軍は10カ月にわたって攻勢を続けた。その結果北部では包囲下にあったレニングラードを解放、南部ではウクライナとクリミア半島を奪還し、その間1月のコルスン包囲戦と3月のカメネツ=ポドリスキー包囲戦でドイツ軍の装甲車両多数を破壊するなど多大な戦果を挙げた。
一方のドイツはアメリカ・イギリスなどの西側連合国軍によるフランスへの上陸作戦が間近に迫っていることを察知しており、東部戦線への増援どころか部隊の引き抜きを行わなければならない状況に追い込まれていた。さらにアドルフ・ヒトラー総統が装甲部隊による機動防御戦術でソ連軍に出血を強いてきた南方軍集団司令官エーリヒ・フォン・マンシュタイン元帥やA軍集団司令官エヴァルト・フォン・クライスト元帥を休養という名の解任に追い込むなど、人材面でも問題が起きていた。
ソ連軍首脳部は次の攻勢時期を、米英のフランス上陸に合わせて行うことを決め目標をベラルーシに定めた。ベラルーシにはエルンスト・ブッシュ元帥指揮下の中央軍集団が展開していた。北方・北ウクライナ(元南方軍集団)・南ウクライナ(元A軍集団)各軍集団がソ連軍の攻勢で戦力を消耗した中では唯一といっていい大兵力であるが、その作戦地域は皮肉にも前年のクルスクと同じように突出する形となっていた。ソ連軍は損害の増大によるデメリットよりもポーランドやドイツ本土への最短路となるベラルーシの奪還によるメリットが大きいと判断した。
一方のドイツ軍首脳部では、ベラルーシよりも先の攻勢で消耗したバルト海沿岸や西ウクライナ方面で攻勢に出て中央軍集団の後方を遮断すると判断し、中央軍集団の装甲部隊を引き抜く挙に出てしまった。
攻勢開始
独ソ開戦から3年目となる1944年6月22日、第1(コンスタンチン・ロコソフスキー上級大将)・2(ゲオルギー・ザハロフ大将)・3(イワン・チェルニャホフスキー大将)白ロシア方面軍と第1(イワン・バグラミャン大将)・2(アンドレイ・エリョーメンコ上級大将)バルト方面軍の189個師団242万人の大戦力がベラルーシからバルト海沿岸の約1000キロに及ぶ戦線で攻勢に出た。そのうちの3分の1に当たる82万人と戦車5,200両、大砲31,000門、航空機6,000機が最大の目標であるドイツ中央軍集団に襲い掛かった。
対するドイツ軍はヒトラーからの死守命令と前述の戦略判断から対応が遅れ、撤退を上申したブッシュは28日に解任され、後任にヴァルター・モーデル元帥が就任した。また参謀総長クルト・ツァイツラー上級大将もブッシュと同じ上申を行ったために「病気療養」の為解任される(後任はハインツ・グデーリアン上級大将)など、重要な状況下で指導部が混乱することになった。
ソ連軍の武官筆頭である最高総司令官代理ゲオルギー・ジューコフ元帥と参謀総長アレクサンドル・ヴァシレフスキー元帥の戦略指揮もさることながら、特筆すべきは各級の前線指揮官たちも3年に及んだ独ソ戦で経験を積んだことから、各兵科を臨機応変に使用した戦術の冴えを見せるようになった。一方でドイツ軍はヒトラーからの死守命令や司令官の後退による混乱などで硬直化が進んでおり、局所的に有利な戦いを見せることはあっても兵器量の劣勢もあって全般的にソ連軍の優勢で推移していった。
さらに7月14日に第1ウクライナ方面軍(イワン・コーネフ元帥)がリヴォフ=サンドミエシュ作戦を発動し、北ウクライナ軍集団(ヨーゼフ・ハルぺ上級大将)を攻撃したことで南方からソ連軍の側面をつくこともかなわず、7月4日にソ連軍はミンスクを解放しベラルーシを奪還。さらに7月18日には開戦時の国境線であったブレスト・リトフスクを占領し、月末にはラトビアを再奪取したことで北方軍集団(フェルディナント・シェルナー上級大将)を孤立化させた。
8月初旬、ソ連軍はポーランドの首都ワルシャワの東方20キロに達したが、補給が限界を迎えたことで攻勢を終了することとなった。
作戦後
ソ連軍は約18万の戦死傷者を出したが、目標達成のための必要経費と割り切られていた。
一方のドイツ軍は死傷者40万、うち将官の戦死・行方不明・降伏者31名という致命的な損害を被ることになった。さらに北方軍集団も8月16日に発動した「ドッペルコップ作戦」でソ連軍の包囲網を一度は破ったものの、10月にふたたび包囲下におかれそのまま翌年5月の敗戦まで20万に及ぶ兵力が拘束されることになった。
この後ソ連軍は8月下旬からバルカン半島で攻勢に転じ、ルーマニアとブルガリアが同盟からの離脱と対独宣戦布告を行い、東部戦線は一気に破局へとひた走ることになる。