背景
足利義昭の要請を受け、第二次信長包囲網(反織田信長勢力により結成された連合)の中心的人物となった武田信玄は、織田領や徳川家康(信長の同盟者)の領地へと侵攻し、三方ヶ原の戦いなどで勝利する。しかし信玄は、高天神城を落とすことはできなかった。
しかし信玄は病死したため、武田軍は撤退。その隙に、信長は浅井長政や朝倉義景などの反信長勢力を次々に滅ぼし、家康は旧領の一部を奪還した。
しかし、信玄の後継者・武田勝頼は明智城など18個もの織田方の城をわずか半月で攻略し、徳川領へも侵攻した。
第一次高天神城の戦い
1574年、武田勝頼は、名将と呼ばれた父・信玄でさえ落とせなかった堅城・高天神城を包囲した。
高天神城主・小笠原信興は主君・家康に援軍を求めたが、家康は援軍を送る余裕がなく、同盟者・信長に援軍を要請した。
こうして信長は自ら援軍に赴き、家康も信長と共に高天神救援に向けて動き出した。
しかし徳川・織田連合軍が到着する前に信興は降伏した。勝頼は、降伏を受け入れ、信興をはじめとした高天神城の将兵たちを全員助命した。
こうして、武田軍は高天神城を攻略したことによって勝利し、家康と信長は撤退した。
これにより、家康が高天神城を見捨てたという印象が広まった。
長篠の戦い
こうして、情勢は武田勝頼が優勢になった。
しかし皮肉にも、それが仇となって、信長が勝頼を警戒するきっかけとなってしまった。
こうして、勝頼は家康に奪還された長篠城を取り返そうとする。
当初、信長は家康の支援に消極的だった。だが、家康が(使者を通して)信長に「もし織田家が我ら徳川家に援軍を提供しないのであれば、我らは織田との同盟を破棄し、武田勝頼に味方する。」という旨のことを伝えたため、慌てた信長は(勝頼を警戒していたこともあって)自ら大軍を率いて徳川軍救援に動き出した。
武田軍は、当初は長篠の戦いにて優勢だったが、勝頼の従兄弟にして義兄弟・穴山信君が勝頼の命令に反して軍を動かさなかったため、武田軍は敗北した。
この後、武田家は岩村城を織田軍に、二俣城を徳川軍に奪還され、徳川軍による高天神城に対する脅威は強まった。。
武田勝頼による勢力挽回
しかし、勝頼は信長と家康に対抗するべく勢力挽回を図る。
まず勝頼は、上杉謙信と和睦(甲越和与)する。さらに勝頼は、毛利輝元と同盟(甲芸同盟)を締結した。
こうして、武田・上杉・毛利・本願寺などによる第三次信長包囲網が結成され、謙信が織田軍を手取側の戦いで撃破した甲斐もあり、勝頼は信長や家康に対して再び優勢になる。
しかし、謙信が亡くなってしまい、織田軍は上杉家に対して反撃した。
勝頼は、上杉景勝(謙信の後継者)と勝頼の異母妹・菊姫(信玄の五女)を結婚させ、同盟(甲越同盟)を締結し、引き続き信長に対抗しようとした。
第二次高天神城の戦い
家康は、度々高天神城を攻めたが、高天神城主・岡部元信は徳川軍を追い払っていた。
1580年、家康は高天神城の周りに砦を複数築き、武田軍に対抗した。
翌年、苦戦した元信などの高天神城の将兵は、勝頼に援軍を要請した。しかし、同じ高天神城守将・横田尹松は勝頼に、「(兵力を温存するため、武田家にとって負担となっていた)高天神城を放棄するべき」と提案した。勝頼は、織田軍の脅威もあったため、苦慮の末に高天神城を放棄。
なす術が無くなった岡部元信は、徳川軍に投降しようとした。
家康は、本心では(武田家臣団から感謝され、のちに登用しやすくするために)元信の降伏を受け入れたかった。しかし、信長は家康に(勝頼が高天神城を見捨てたという印象を広めるために)降伏を受け入れないように圧力をかけたため、徳川軍は岡部率いる武田軍と激突。
結果、岡部元信は討死した。
こうして1581年、武田軍は高天神城を失い、徳川軍が勝利した。
この後、信長の狙い通り、勝頼が高天神城を見捨てたという印象が広まった。これは、かつて勝頼が高天神城を攻略した時に家康が置かれた状況と同じであったことは、なんとも皮肉な話である。
その後
第二次高天神城の戦いの翌年の1582年、勝頼の義弟・木曾義昌が、織田軍の調略によって武田家を離反。これをきっかけに、織田信長、徳川家康と北条氏政・氏直による甲州征伐を実行し、武田領へと侵攻した。
穴山信君や小山田信茂などの寝返りもあり、大名としての甲斐武田家は滅亡した。
ちなみにこの3ヶ月後、信長は横死した。