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清洲城の編集履歴

2023-02-14 16:43:48 バージョン

清洲城

きよすじょう

尾張国春日井郡清須(現在の愛知県清須市一場)に存在した城。清須城とも言われるが実はどちらも正しい。

概要

清洲城守護館として

室町時代の尾張守護・斯波武衛家が交通の要所であった清洲(清須)に構えた尾張守護所。清洲城守護館という名であり平城としての体裁が強かった。清須城とも言われる。

戦国時代になり所有者は斯波武衛家→織田大和守家→織田弾正忠家と変遷した。

桶狭間の戦い当時の織田信長の拠点としても有名でここから出陣した。信長が松平元康と「清洲同盟」を結んだのもこの場所。


立地上の問題として、付近の木曽川氾濫すると、城内は水浸しになっていた。また館作りゆえに籠城にも向かなかった。

1563年、信長は美濃斎藤家攻略のために本拠地を小牧山城に移し以降は番城となった。

信長の死後、清洲会議が開かれたことでも知られる。


当時の実態は不明な点が多いが、敷地は広く天守閣は存在していなかった様である。

2023年のNHK大河ドラマどうする家康』ではCGによってその面が強調され、まるで紫禁城や『キングダム』に登場する秦の王宮のようなスケールとなっていた


近代城郭への変身~廃城

清洲城下では地震も二回ほど起こっているが、城主が織田信雄の時に発生した天正の大地震が原因で、信雄は改築に取り掛かり大天守・小天守を備えた巨城に変貌した。


信雄が豊臣秀吉の怒りを改易された後は福島正則が城主となった。関ヶ原の戦い後、正則は広島城に移り、徳川家康は四男・松平忠吉を城主と清洲藩を立てたが忠吉は早世。忠吉の後任として九男・義直が城主に任じられた。


後に家康は那古屋城跡に名古屋城を築城し、義直は清洲から名古屋に移り名古屋藩(尾張藩)を興した。清洲城は名古屋城築城の資材に使われた。また、清洲越しと呼ばれる城下町の移動が行われ、今日に至る名古屋の町が完成した。清洲城は大坂冬の陣の前年に当たる慶長18年(1613年)、名古屋城の完成と城下町の移転が完了したことにより廃城となったが現在も名古屋城にある清洲櫓にその名残を残す。


改築後の清洲城も絵図は残っておらずこちらの実態もはっきりとわかっていない。現在の天守は1989年に再建されたものである。


関連タグ

清須市 小牧山城 名古屋城

斯波武衛家 織田信長 織田信雄

福島正則

徳川家康 松平忠吉 尾張藩

どうする家康 清洲同盟 清洲会議

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