دولتْ علیّه عثمانیّه
概要
小アジア(アナトリア)に起こったトルコ系民族のイスラム教にもとずく国家勢力。オスマン朝ともいう。
1299年にオスマン・ベイ(オスマン・ガーズィー)によって建てられた。
当初はオスマン率いられた小グループのイスラム戦士(ガーズィー)団に過ぎなかったが、1326年にブルサを首都とし、さらに14世紀後半のイルハン朝滅亡後の徐々に勢力を拡大した。やがてニカエア、ニコメディアなどのビザンツ帝国の要塞都市を陥落させて行き、第2代オルハンは1354年にはバルカン半島に進出。1361年にはエディルネ(アドリアノープル)を攻略して首都とした。バルカン半島での戦争で領土を広げ、その余勢を駆ってアナトリア側にも進出を強めてビザンツ帝国を包囲する状況となった。1402年に中央アジアのティムールに敗れて滅亡しかけたが、辛くも存続し勢力を盛り返した。
1453年に第7代メフメト2世によってビザンツ帝国を滅亡させ、ローマ帝国文明に引導を渡した。陥落後、オスマンのスルタン(君主)のメフメト2世はルーム・カイサル=ローマ・カエサル(ローマ皇帝)を名乗り中世ヨーロッパへの侵略始める。
その後第9代セリム1世がマムルーク朝を滅ぼしてシリアとエジプトを獲得し、その子第10代スレイマン1世の時代にはアルジェリアまでの地中海南岸、ヨーロッパではハンガリー王国を打ち破って第1次ウィーン包囲を行い、ハンガリー以南の東ヨーロッパは完全にオスマン帝国の領土となった。目標として語られるのは『青い林檎の国まで取れ』(イタリアのこと) byスレイマン2世
スレイマン1世以降、宮廷の内紛が絶えず徐々に国力は停滞して行ったが、クリム・ハン国など南ロシア方面のジョチ・ウルスの余裔勢力などへも影響力を残し、18世紀を通じてなおも西ユーラシアの大国として君臨し続けた。
18世紀後半から19世紀にかけてロシア帝国の黒海進出やナポレオン戦争によってエジプトが占領されるなど、ヨーロッパ諸国からの攻勢に耐え切れず衰退の色が濃くなって行った。19世紀半ばにはヨーロッパの諸制度をもとにした軍事技術の近代化をはかるが、領内各地の民族運動の多発に対処し切れず、ヨーロッパの支援を受けたギリシアに独立されてしまう。自治権をあたえたエジプトは19世紀末には逆にイギリスの植民地状態となり、クリミアなどの周辺領土もロシアとの戦争で喪失してしまう。20世紀に入り第1次世界大戦で敗北し、アナトリア中央部のアンカラで放棄したムスタファ・ケマル率いる国民会議派の軍がギリシアやフランスなどのアナトリア内外の進出してきた軍を撃退し、スルタンを退位させてトルコ共和国を建国させた。ここに600年余り続いたオスマン帝国は滅亡し、現在のトルコとなった。
アラビア半島を版図に収める、かつての大ローマニアの属州地域に匹敵し、隆盛を極めた。
首都は幾度かの遷都を経た後に、イスタンブールとなった。
オスマン帝国国歌
Ottoman Empire Anthem (1876)(1299-1922) オスマン帝国(1876)(1299-1922)
イェ二チェリ軍団の音楽
略説
- 小アジア(アナトリア)のオスマン家を中心に地中海アフリカ沿岸などを版図に入れたイスラム大帝国。
- オスマン語:دولتْ علیّه عثمانیّه
- ラテン語発音:Devlet-i ʿAliyye-i ʿOs̠māniyye
- 存続期間:1299年 - 1922年
起源
オスマン家の当主が代々皇帝として君臨する国家であることから、「オスマン家の高貴なる王朝=オスマン帝国」を自称した。
- セルジューク朝のアナトリア(ルーム)地方における地方王朝であったルーム・セルジューク朝は、中東におけるモンゴル帝国の地方政権であったイルハン朝に臣従していたが、イルハン朝の内紛に巻き込まれ14世紀初頭に滅亡した。ルーム・セルジューク朝はセルジューク朝の進出によってアナトリア各地に割拠していたトルコマン諸勢力の名目上の宗主であったが、14世紀半ばにはイルハン朝も断絶して滅亡し、アナトリアにはこれらの諸勢力・君侯(ベイ)たちを統御する存在がいなくなってしまった。
これによってアナトリア各地には数十もの君侯国(ベイリク)が乱立する状態となり、そのなかでルーム・セルジューク朝、イルハン朝の隣国であったキリスト教国家ビザンツ帝国と最も近い位置にあった君侯国こそが、オスマン・ベイを始祖とするオスマン君侯国であった。オスマン君侯国はビザンツ帝国や周辺の君侯同士の紛争によって徐々に勢力を拡大し、現在のトルコ共和国の前身となるイスラム教の一大帝国に成長する。
1453年に東ローマ帝国を滅ぼし、同国の首都コンスタンティノポリスを征服したが、オスマン帝国はそのまま自らの首都として引き継いだ。宮殿や政庁を古代のビザンティオン時代のアクロポリスのあった半島東端に移し、いくつかの教会をモスク(イスラム教の礼拝所)に改装して、可能な限り従来存在した建物群は再利用した。イスラム教圏ではコンスタンティノポリスのことをアラビア語音写で「クスタンティニーヤ (al-Qusṭanṭiniyya)」などと呼び、オスマン語(トルコ語)ではこれを「コスタンティニイェ(Kostantiniye)」と発音し、オスマン帝国滅亡までこの呼称は使われ続けた。アナトリアでは14世紀前後くらいに「イスタンブール(Istanbūl)」という呼び方もされていたようで、オスマン帝国が勢力を拡大するに従ってこちらの呼称も使われるようになった。1922年にオスマン帝国が倒されトルコ共和国になると、「イスタンブール(İstanbûl)」が正式な首都名となった。現在は語末の長母音も短母音化し「イスタンブル(İstanbul)」と呼んでいる。
君主の称号
異教徒への掠奪や遠征を行うことを、アラビア語ではガズワ(ghazwa)とかガズウ(ghazw)と称し、これらのイスラム教的な対外遠征に従事する戦士達をガーズィー(ghāzī)と呼んだ。オスマン君侯国は13世紀末に誕生したビザンツ帝国の領域に最も近い君侯国のひとつで、これらビザンツ帝国とイスラム勢力の境界地域に集まったトルコマン系のガーズィー戦士集団を母体としたものだったと考えられている。オスマン帝国の君主は初代のオスマン・ベイがオスマン・ガーズィーと呼んで以来「だれだれ・ガーズィー」という称号も帯びた。
14世紀前半にルーム・セルジューク朝やイルハン朝が滅亡すると、、オスマン家の君主は第3代君主ムタト1世の頃から徐々に「ガーズィー」以外に「ハン」や「スルタン」といった、「ベイ」を凌ぐ地位のテュルク・モンゴル系やイスラム的な君主の称号を用いるようになった。さらには「パーディシャー」といったイラン(ペルシア)的な君主の称号も用いるようになる。
その他
最盛期には南および東地中海全域、中東と東欧を支配する大帝国であった。イスラム教に改宗させたキリスト教徒を中心に編成された親衛団(イェニチェリ)で有名。
関連
国家:東ローマ帝国またはビザンティン帝国(ビザンツ帝国・ビザンツ)
指導者:メフメト2世/スレイマン1世(スレイマン大帝)/ムスタファ・ケマル