フスハー
ふすはー
概要
アラビア語の一方言であり、別名古典アラビア語。
他言語においては同系統の別言語に匹敵する差異を有し、方言間の相互理解性に難のあるアラビア語において、ある種の標準語としての地位を有している。同様の立ち位置にある言語に、日本語(同様に方言間の差異が別言語並みに著しい)の東京山の手方言があるが、山の手方言はいまだに減少・高齢化しつつあるものの一定数の母語話者を有するのに対し、フスハーはすでに母語話者を喪失して久しい。
しかしながら、クルアーンの朗誦言語であるために非母語として、アラビア語を構成する諸言語の話者のみならず、世界中のムスリムに広く学ばれている言語である。
21世紀現在、母語話者を喪失している言語としては、世界で最も多くの話者数を有する言語である(ちなみに母語話者を有する言語も含めると、英語が世界最多の話者数を有する言語であり、また、世界最多の母語話者数を有する言語は中国語である)。
現状
文語的な書き言葉であるフスハーに対し、現在もアラビア語を公用語とする各国で用いられている日常的なアラビア語は、「アーンミーヤ」と呼ばれる。アーンミーヤはそれぞれの国で個別の方言がバラバラに標準語と定められているため、同じアラビア語であるにもかかわらず、相互の意思疎通が困難である。
フスハーはクルアーンの記載言語であるため、文字的な表記揺れこそ存在しないものの、すでに母語話者を喪失して久しいために、本来あるべき正確な音韻体系が保存されておらず、クルアーンの読謡等でフスハーを声に出して読む場合、各地のアーンミーヤの読み方でフスハーを読むという行為が行われる。そのため、同じフスハーであっても出身地が異なる人間が読むと、全く音が異なるということは多々ある。加えて、イスラム教は非アラビア語圏でも広く普及している宗教であるため、スワヒリ語訛りやウルドゥー語訛り、インドネシア語訛りのフスハーといったものも当然存在する。そのため、欧州の移民などの間では、宗派の異なる多様な地域にルーツを持つ信者が集まって集団礼拝を行う都合上、礼拝時に読まれるクルアーンのフスハーの発音を巡って議論になる場合があるほか、アラビア語を母語とする話者同士でも、双方のアーンミーヤに相互理解性がない場合はやはり訛りが残らざるを得ないフスハーではなく、英語やフランス語を共通語として用いる場合が多々見受けられる。
諸説あるが、フスハーとアーンミーヤの言語的断絶は、クルアーンの掲示された西暦600年ごろにはすでに始まっていたとも言われている。アーンミーヤの多くはイスラム教の拡大に伴ってアラビア語が普及する以前から話されていた、消滅したセム語諸語の特徴を有するものも多く、こういった現状からほぼクルアーンの記載・朗誦以外に実用的な用途を有しないフスハーは、同じく宗教上の祭礼用語としてしか機能を有しない死語であるラテン語となんら変わらない実情に置かれているとも言える。その場合、アーンミーヤはフランス語やイタリア語などのラテン語の諸方言に端を発する諸言語と同等の立場にあるともいえ、単一言語としてのアラビア語は、もはや存在しないと考えられる。
イスラム教はキリスト教とは異なり、教義上聖典の翻訳を認めていない(翻訳されたクルアーンはクルアーンとしての神聖さを喪失した、学習目的の参考書に過ぎないと考える)ため、あくまでクルアーンに用いられている言語の方言であるとのプライドから、アーンミーヤを構成する各言語は個別言語ではなく同一の言語であると政治上見做しているにすぎず、実態はロマンス諸語と同じく統一性を有さない同系統の多言語群である。
日本人がアラビア語を習得する場合、大きく分けて以下の3通りのパターンがある。
①大手商社などに勤務する会社員が、アラブ諸国への支店に駐在員として出向する場合(男性に多い)。
②考古学や博物学などの研究目的で渡航する場合(研究者・学生に多い)。
③結婚や巡礼ビザの取得のために、イスラム教に改宗する場合(女性に多い)。
①の場合、学習するのはアーンミーヤであり、一般には湾岸方言かマグリブ方言である。
②の場合は、まずはエジプト方言やシリア方言のアーンミーヤを学習する場合が多い。その後、アッカド語やアラム語などとの比較研究のために、事後的にフスハーを含むさまざまな方言や、ヘブライ語などの他のセム語、さらにはペルシア語、ギリシア語、オスマン語、エジプト語、サンスクリット語などのセム語ではない諸言語を幅広く学習していくことを強いられる(ある意味、一番過酷な道である)。
③の場合は基本的にフスハーを学ぶこととなる。
そのため、同じアラビア語を話せる日本人同士であっても、アラビア語を用いたコミュニケーションが全くできないということは珍しくない。お互いの話すアラビア語が間違っているなどといって無用な喧嘩を行うのは本当に不毛である。
なお、巷で売られている参考書等は、基本的にアーンミーヤ、特にビジネス需要の高い湾岸方言のものである。大学の生協などでは留学目的の需要の高いエジプト方言やマグリブ方言の参考書が多い。
日本でフスハーを習得しようと思った場合、基本的にイスラム教へ改宗するか、もしくは日本語とフスハーの両方が理解できる在日ムスリムを探して根気よく人脈を当たり、個人指導を受けるかの二種類しかないが、アラビア語自体が極めて難解な言語であり、挫折する人間が本当に多いことに加えて、フスハーは現状宗教用途ぐらいでしか用いられておらず、日常言語としての実態は死語であるので、そこまでの努力をして習得を実現したとしても需要はほぼない。