概要
ギルガメシュ王物語の記載言語として知られるバビロニア語と、アッシリア語の二つの方言から成る古代言語。
アラビア語やヘブライ語とは同じセム語であり、文法や語彙の多くが共通している。
すでに死語と化して久しいが、多くの語彙がアラビア語やギリシア語などに借用され、ラテン語や英語を経由して今なお世界中で用いられている。
アラビア語とは非常に近縁にある言語であり、アラビア語学習者にとっては習得はさほど困難ではないが、日本人のようなセム語とは文法構造が大きく異なる膠着語を母語とする人間にとっては、国際常識的にはむしろ習得困難とされるシュメール語の方が構造が似ているため、習得しやすい。
本来の筆記にはシュメール語より借用した楔形文字が使用されるが、楔形文字は漢字と同じような標語文字と仮名の組み合わせにより筆記される文字体系であるため、格変化や屈折に富むセム語や印欧語の表記には本来向いていない。また、文字数が極めて多い(とはいえ、中国語の漢字に比べれば圧倒的に少なく、日本語の常用漢字の半分程度の字数しかない)ために学習困難とされ、現代では一般にローマ字転記された上で学習・解読される。
シュメール語との関係
アッカド語が国際標準語たる地位を得る前には、シュメール語がこの地位を担っていた。アッカド語はこのシュメール語より文字体系を借用しただけでなく、全単語数の一割を超える膨大な量の単語を借用した。さらに、祖先であるアッカド語以前のセム語諸語においては副詞や形容詞が動詞や名詞の前に置かれる(つまり、日本語と同じ)であったものが、シュメール語の伝統に習ってこれらの後に置かれる(俗ラテン語やオーストロネシア語と同じ)に変化して成立したことがわかっている。
とはいえ、楔形文字は漢字同様の表意文字であるため、単語を借用した事実は存在しても、その音韻まで同一であったか否かについては保証できず、むしろ日本語の訓読みのようにセム語独自の読みに言い換えられた単語が大半であると言われている。例えば、アラビア語の"sultaan"に相当する語(王や皇帝という意味)は、アッカド語とシュメール語で同じ言葉(文字)であるが、アッカド語では"sarram"、シュメール語では"lugal"と読みが異なっていたことが判明している。
シュメール語は解読の完了している古代語であるが、近縁関係にある多言語が見つかっていない孤立語であるため、その性質上直接の解読は物理的に不可能な言語である。そのため、アッカド語の解読完了後に、出土したアッカド・シュメール辞典やこういった借用語を手がかりに解読したという経緯があるため、読みのわかっていない表意文字に関しては、とりあえず暫定的にアッカド語のものをそのまま流用している。故に当時の音韻とは著しい違いがあることは確実である。
これに対し、アッカド語に関しては同様に読みがわからない単語であっても、アラビア語等の現存するセム語の相当する語彙と、仮名文字で書かれた文献の出土により音韻の判明した語彙を比較することで、アッカド語からアラビア語に変容するまでの音韻変化の規則性を割り出すことが可能である。そのため、アラビア語やヘブライ語からの逆変換により当時の音韻をほぼ正確に再現できているとされる。
習得
前述のように解読済みの古代語であるため、機会と資料さえあれば習得は可能である。むしろ、バビロニアを対象に考古学研究を行うことは、現状出土したアッカド語の文書の翻訳・解読を行うことに同義であるため、習得は必須であり、アッカド語もわからないのにこの分野に足を踏み入れようものなら、何をしに来た帰れと言われても文句は言えない。
アラビア語の習得自体が困難である日本人の習得は同様に難しいとされるが、セム語や文法構造の似る印欧語の話者にとってはさほど習得は困難ではない。
従って、母語もしくは第一・第二外国語としてアラビア語を習得することが多いムスリムにとってはちょろイン中のちょろインであり、場合によっては英語やラテン語よりも習得は容易である。とはいえ、基本的にはイスラム教の普及前の多神教の世界の言語であるため、時には関連遺跡への破壊活動さえ辞さないような過激派を中心に触れることさえ禁忌と考える人間も多い。一方、穏健派の中にはアッカド語で書かれた当時の歴史文書の内容を積極的に精査し、同様の記述がクルアーンやハディースに伝承として引用されていることを証明することで、キリスト教や多神教に対するイスラム教の正当性を主張する根拠とする者も多い。
古代語であるため、政治や行政に関連する語彙以外はほぼ不明である上、自転車や蛍光灯といった当時は存在しなかった生活必需品を表現する単語は当然存在しない。しかし、前述の通りアラビア語との近縁関係があるため、アラビア語での相当する語彙を判明している音韻変化の法則を逆に適応することで、もしもアッカド語が現存していればこのように言っていたであろうという言葉を導き出すことが可能である。そのため、シュメール語などの他の多くの古代語とは異なり、アラビア語も習得しているという条件付きではあるものの、習得すれば今なお日常生活で用いることも不可能ではない(ただし、需要はない)。