フスハー
ふすはー
イスラム教の聖典たるクルアーンに合わせ文語アラビア語として標準化されたもの。当初クルアーンは暗記による伝承の方式をとっており、文語としての文法体系に合わせて書字方法がウマイヤ朝期にかけて一緒に整備されていった。
元々フスハーと同一のアラビア語方言があった訳ではなく、クライシュ族が用いていたヒジャーズ方言に他地域方言の要素を加えた部族共通語的性質を帯びており、文法学者らによるアラブ部族諸方言の綿密な研究の末にフスハー文法と呼ぶべき規範が定められていった。この規範となる文語アラビア語フスハーについては「正則アラビア語」などと和訳されている。
軍事的征服によるイスラーム化によりアラビア語は本来の地域からアフリカ大陸、そしてイスラーム教徒が統治していたイベリア半島など広大な地域へと広まっていき人々の意思疎通に用いられたが、現代アラブ諸国に存在する複数方言がどのような形でフスハーと関連性を持ち、方言が生まれていったかについてはまだ十分に明らかにされていない。
文語であるフスハーが各国で通じる同質性をある程度保っているのに対し、口語(アーンミーヤ)に関しては地理的距離・元になったアラブ部族系統の違い・現地にあった言語の混入度合いなどにより大きな違いが生じている。
諸方言の違いは現代ヨーロッパにおけるロマンス諸語の差異に近いと言えるが、アラブ諸国は文語フスハーという存在を共有していることから、別々の言語ではなく同じ「アラビア語」を話すアラブ人として同一視することが可能となっている。
なお文語アラビア語は近代に再整備され文法の簡素化や語彙類の変容を経験しており、近代化以前のフスハーは「古典アラビア語(Classical Arabic)」、現代のフスハーは「現代標準アラビア語(Modern Standard Arabic、略してMSA)」と呼ばれるなどしている。
公的機関でのスピーチ、ニュース番組、新聞、書籍、文化人同士の会話、個人的メッセージとは異なる文書・手紙、製品パッケージ表示など。
完全な死語になった訳ではなく、欧米諸語の用語や表現を多数取り入れた近代化を経て日常会話としての使用に耐えうるものとなっている。
海外の統計では世界の言語の中でもアラビア語話者数が極めて多いとの結果が示されていることが多いが、これは口語アラビア語(アーンミーヤ)である方言を日常会話に使っている人々の数であり、フスハー会話に苦労しない人々がこれだけいるという事実を表したものではない。
今日においても異なる地域出身のアラブ人同士が意思疎通のためにフスハーを用い会話することがあるが、学校教育の範囲内でしかフスハーに触れず日常会話は口語(アーンミーヤ)でしか行わない層が大多数を占め、高学歴層となると英語やフランス語で教育を受ける割合が多いことから、フスハーによる長時間会話ができるのは文語アラビア語に関心が強い人々に限られている。
フスハーを第一言語、母語として用いているのは文語での会話を敢えて選び幼児期から親がフスハーで話しかけていたような家庭の子女、発達障がいにより口語を拒絶する場合など、ごくわずかである。
一方でクルアーンの朗誦に欠かせない言語であるために世界中のムスリムに広く学ばれている。クルアーンを読むだけではアラビア語の日常会話ができるまでにはならないが、インドネシア等を始めとして留学経験のある非アラブ系イスラーム教徒が多い地域ではフスハーによる流暢な会話を行うことができる人も少なくない。
イスラームはキリスト教とは異なり、聖典の翻訳を認めておらず、翻訳はあくまで意味解説としてのみ許されている。アラビア語は神がクルアーンを下すために選んだ言語であること、クルアーンが預言者や人間ではなく神本人の言葉であること、信徒らが来世で共通語として用いるのがアラビア語だとされていることから、クルアーンはアラビア語のまま朗誦が行われている。
元々文語として整備されたフスハーはクルアーン啓示当時のアラブ人のどの方言とも同一ではなかったとされ、イスラーム以前のアラブ詩自体が詩人の部族方言そのままの言葉とは異なる他部族にもわかるような共通アラビア語的なもので作られることもあった。
そのため文語と口語の2つに分かれている二層状況(ダイグロシア)はアラビア語に元々あったと言うことができる。
アラブ世界ではアラビア語が常に権威を有していたという訳ではなく、非アラブ人統治者による支配も長い間経験してきた。オスマン朝期、フランスによるアルジェリア統治期など、公的な場からアラビア語が追いやられていた時期もあったこと、またクルアーン朗誦を学ぶ寺子屋以外に文語アラビア語を長期間教える近現代のような学校も無かったことから、一般庶民が文語アラビア語(フスハー)離れが加速した。
北アフリカ地中海沿いマグリブ諸国ではフランス語の移入も進み、元々ベルベル語の影響が大きく東方アラブ世界(マシュリク)との差異が大きかったマグリブ諸方言とマシュリク諸方言との乖離が大きくなっていった。
東方アラブ世界では教員の出稼ぎや衛星放送によるテレビドラマの影響でアラビア半島住民がシリア・レバノンやエジプトの方言を聞いて理解し、またその逆にシリア・レバノンやエジプト人がアラビア半島諸方言を理解できることが多い。そのため自分の方言を話していてもある程度互いに意思疎通ができることが珍しくないが、これらの地域住民はマグリブ諸方言との接点を持たないことが一般的で、モロッコ、アルジェリア、チュニジア等方言による会話をほぼ理解できないという隔絶状況にある。
クルアーンの朗誦については読誦の流派が決まっておりイスラーム初期の研究書における記述から初期共同体における調音部位も推定・研究し尽くされているため差異は少ないが、口語の諸方言についてはイスラーム以前からあった部族方言における子音の置き換わりなどが反映された発音となっており、フスハーを正確に話せない・読めないアラブ人の数が多い一因となっている。
アラブ人同士の会話では、堅すぎるフスハーにアーンミーヤを混ぜた中間体が多用されている。
しかしこのような改変されたフスハーでも会話を続けられないアラブ人もいるため、多国籍な職場では時として英語やフランス語を共通言語として用いられるなどする。
日本人がアラビア語学習を始める動機に関しては主に以下のようなパターンがある。
1-大手商社などに勤務する会社員がアラブ諸国への支店に駐在員として出向する場合。
2-外務省員としてアラビア語研修に送られ、アラビア語対応可能な要員となる場合。
3-アラビア語専攻への入学、歴史学・考古学・博物学などの専攻と留学。
4-アラブ人もしくはイスラーム教徒配偶者との結婚によるイスラーム学習の一環として。
5-アラブ人との婚姻による配偶者出身地の方言習得として。
6-多言語学習といった言語学的興味から。
1-赴任地に合わせて湾岸方言やマグリブ方言を学ぶ場合もあるが、英語やフランス語で大抵の用事を済ませられることも少なくない。
2-外務省では研修のためエジプトやシリアに長らく省員が派遣されてきたため、アラブメディア出演時もフスハーに加えエジプト方言やシリア方言で会話をしている大使らが多い。
3-研究のため西欧諸語やアラビア語フスハーに加えアッカド語やアラム語、ヘブライ語、ペルシア語、オスマン語など幅広く学習するケースが多い。
書店で売られているアラビア語学習書は基本的にフスハー参考書となっている。一時期はビジネス需要の高い湾岸方言の口語学習書も発刊されるなどしたが、長年を通じて供給があるのはエジプト方言学習書である。これに加えて観光旅行需要を受けたマグリブ方言の会話本やNHK講座、語学研究の一環としてのパレスチナ方言教本などが続く形となっている。
一時期に比べアラビア語学習書の数はかなり増えたが、6のように多言語学習者のニーズに応えるほどの多様なバリエーションは無いため、昔同様海外で発刊された文法書や会話本を取り寄せて学んでいる人々も少なくない。
日本国内におけるアラビア語教室に関してはフスハー講座、また一部方言については教室もしくはオンラインでのレッスンが行われている。公的な場での会話を行う人はフスハー、旅行や駐在への帯同予定の人はアーンミーヤといった具合に、各自のニーズに合わせた学習がなされている状況である。