生涯
承和12(845)年6月25日、大和国奈良で生まれる。これは現在の奈良県奈良市菅原町と言われるが、他にも出生地については平安京すなわち京都だけで3ヶ所も伝えられており、出雲国説(現在の島根県)や近江国説(現在の滋賀県)まであるため、本当のところは分かっていない状態である。
菅原道真は菅原是善の子で、祖父・清公によって確立された学問の家、菅原家の三代目であるが、道真は特に優秀で、幼少の頃から詩歌の才に恵まれた。当然のこととして学者の途を目指し、貞観6(862)年に18歳で文章生となって以降、貞観9年には文章得業生となって学者の途を歩む出発点に立ち、異様な速度で文人としての頭角を現し始める。その速さに、貞観12年に官吏の登用試験に好成績で合格した際、規定なら3階位進めるべきところを、年齢と身分が不釣り合いになると2階位のみに留められたほどであった。以後の昇進も速く、元慶元(877)年、33歳の時に文人のトップである文章博士に登りつめている。
仁和2(886)年讃岐守にも任じられ、4年間現地へ派遣されて善政を布いた。この人事異動を左遷と見る周囲の目があったのであるが、道真も地方官である国守は菅原家の家業ではないと断言し、不遇意識を懐いた。文章博士として学問を以て天皇にお仕えすることこそが先祖代々の仕事であり、したがって、道真にとって、都を離れて地方に赴くことなど、ありうべからざることだったのである。なおこの間、仁和3(887)年に詔勅の文言を発端とし、関白の藤原基経がストライキを起こす事件が起こった際、宮中の人間が止められずにいたところをうまく調停するなどのできごともあった。
寛平2(890)年に讃岐から帰京すると、道真は政治改革を進めようとなさる宇多天皇のご恩顧を得ることになる。それまで外戚(皇室の姻族)として権勢を振るって来た藤原氏に珍しく有力者がいないことを機と見て、違う氏族の道真を登用して掣肘をかけたのである。
寛平3年には式部少輔に復しただけでなく、将来の公卿の地位が約束される蔵人頭となり、左中弁という要職も兼任し、栄達の途を歩み始めた。
寛平7年には中納言、寛平9年に権大納言・右大将と目覚ましい昇進ぶりであり、同年に宇多天皇が醍醐天皇に譲位なさって以降も、即位された醍醐天皇の皇太子時代の側近として重用され、最終的に、7年で従五位上から正三位まで行くという猛烈な出世を遂げた。この間の事跡として、遣唐使の廃止がある。寛平6(894)年に遣唐大使に任命された際、唐の衰退が著しいことから中止を建言、その後唐が滅びたことで、結果的に遣唐使自体を廃止させることになったものである。
昌泰2(899)年にはついに異例の右大臣に昇進、朝廷のトップ近くまで登りつめた。しかしこのことによって、藤原氏の反発がどんどん強まったほか、下級貴族にも政策に不安を感じてそれに追随する者が多く、次第に政敵が増加。
貴族社会の身分秩序を乱す、学者出身者の異例な栄達は、家柄を誇る貴族たちには到底認められなかったのである。このような雰囲気の中で道真は右大臣となっていた。
それを知った同じ学者でライバルの三善清行が、そろそろ政界を退いた方がよいと忠告をしたが、確執もあり無視されてしまう。
そしてついに従二位に上った昌泰4(901)年、藤原氏の怒りが爆発、左大臣・藤原時平により醍醐天皇を譲位させようとしていると讒言されてしまう。これにより、従二位右大臣の道真を罪人として大宰府に大宰権帥(だざいのごんのそち)として左遷するという醍醐天皇の命が下された。
左遷の理由は低い家柄から出て大臣の地位にまで昇りながら、分をわきまえず権力を専らにして、宇多上皇にへつらい惑わせて、上皇と天皇との父子の間、また天皇と皇弟との兄弟の間を裂こうとしたから、とされた。
この命からわずか6日後に道真は大宰府(福岡県太宰府市)へ向かう。道真には多くの子供があり、正確には分からないが標準的な系図によれば男11人、女3人の子供が挙げられているが、そのうち、大宰府に連れて行くことが許されたのは幼い子供だけであった。京の家では妻と年長の娘たちが留守を守ったが、門前の木を売り、在地の一部を賃借しするなど、留守宅の生活もしだいに苦しくなっていった。
よく勘違いされているが、この大宰権帥自体は、平安末期まで実質的な大宰府のトップで、貴族の憧れの官職であった。しかし道真の場合は「大宰員外帥(だざいのいんがいのそち)」と呼ばれるもので、名前だけの高級官人左遷用ポストとして使われたものであった。このため大宰府の人員のうちにも数えられないばかりか、大宰府本庁にも入れてもらえず、ずっと南のぼろ屋で侘び暮らしを強いられていた。「都府楼(大宰府本庁)はわずかに瓦が見えるばかり、観世音寺(大宰府に附属する寺)はただ鐘の音が聞こえるだけ」と漢詩に詠んだのも、遠くに追いやられていたためである。
2年をこの地で過ごした道真は、延喜3(903)年2月25日、そのまま京に帰ることなく、失意のうちにその地で没した。享年59であった。墓地は現在の太宰府天満宮である。埋葬地を探して牛車に遺体を乗せて運んでいたところ、いきなりこの場所で動かなくなったため、道真の意思であるとして葬ったものと言われている。
死後と神格化
菅原道真が大宰府で没した直後から、都では天変地異が相次ぎ、災害、関係者の非業の死などが重なった。
まず讒言をした張本人の藤原時平が若くして急死し、その後も皇族が相次いで急死する。当時は政争に敗れて非業の死を遂げた人物が「御霊」=怨霊となって祟りをなすという「御霊信仰」が浸透していたため、道真が怨霊となって祟りを成したと恐れた朝廷は、道真の罪を許して右大臣に戻し、正二位を贈った。
しかし異変は止まらず、ついに延長8(930)年、天皇が政務を執られる宮殿である清涼殿に落雷が起こり、稲妻が柱を直撃、隣の紫宸殿にも電撃が走った。藤原清貫をはじめとして清涼殿だけで2名死亡、紫宸殿でも5名が死亡する大惨事となった。当時の天皇・平城天皇は被害を免れたものの、このすさまじい光景に衝撃の余り体調を崩され、3ヶ月後に崩御してしまわれた。
この事件と、死亡した藤原清貫が左遷後の道真の監視役であったことに、ただでさえ怨霊と震えていた朝廷や人々の恐怖は頂点に達した。このため人々により雷神=天神に結びつけられ、「天神様」として神格化の上祀られることとなった。また朝廷でも事件から約60年後に正一位と左大臣とし、さらに太政大臣と次々に贈位して、道真の魂を鎮めることに必死となった。
さらに『将門記』には、道真が八幡神に取り次いで平将門を新皇にさせたという。それほどまでに「道真=怨霊」のイメージは強かった。もっとも、大宰府にいた本人は左遷されたことや藤原氏に対して、恨み辛みを述べてはいなかったという。
その後、御霊信仰が次第に衰退するにつれて、道真の本来の性格の方が重視されて学問の神として信仰されるようになり、現在に至っている。
祟りが恐れられた菅原道真の霊をやすめるため都の北野の地に社殿が造営されたのであるが、後世それが発展し現在の「北野天満宮」となっているのである。
文芸作品
詩歌・文章に秀でていただけに、和歌・漢詩・漢文ともに極めて多い。著書に自分の作品をまとめた『菅家文草』『菅家後集』がある。
『菅家文草』
また学者であるため史書のまとめや編纂にも関わり、史書のテキストをそのまま引用して分類した『類聚国史』を編纂している。この中にはかなり散佚してしまった『日本後紀』の文章も数多く引用されており、同書の復元に大きな力を貸している。また日本で編纂された6冊の史書・六国史の最後を飾る『日本三代実録』も編纂したが、完成が左遷直後だったため名前が外されてしまった。
一般的には百人一首の24番に
「此の度は 幣も取り敢へず 手向山 紅葉の錦 神の随に」
が選ばれているのがよく知られている。