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ザイドリッツの編集履歴

2023-11-04 07:01:17 バージョン

ザイドリッツ

ざいどりっつ

ドイツ語圏の名字「Seydlitz」。プロイセン王国の軍人、及びそれに因んで名づけられたドイツの船舶名など。

曖昧さ回避


フリードリヒ・ヴィルヘルム・フォン・ザイドリッツ=クルバッハ

(1721年2月3日~1773年11月8日)

プロイセン王国の騎兵大将。騎兵総監。

プロイセン王フリードリヒ・ヴィルヘルム2世に重用され、卓越した騎兵隊指揮官としての能力で第一次・第二次シュレージェン戦争七年戦争などで戦功を立てた。


特に有名なのが七年戦争の折での活躍である。

ロスバッハの戦いでは決定的な打撃力となり、またツォルンドルフの戦いではフリードリ2世の命に何度も背いてまで騎兵突撃のチャンスを待ち、効果的な側面攻撃で友軍の危機を救っている。

ロシア、オーストリア連合軍とのクーネスドルフの戦いでプロイセン軍は壊滅的な敗北を喫したが、その攻勢限界はロシア軍へのザイドリッツの騎兵突撃までであり、その攻撃が頓挫した瞬間をオーストリア軍のエルンスト・ギデオン・フォン・ラウドン少将は勝機と判断し、それまで苦戦するロシア軍を救援もせず温存していた自軍の騎兵を初めて投入している。

またフライベルクの戦いでは歩兵を率いて戦い、その能力は騎兵指揮だけに留まらない事を示した。


しかし、若い頃に重ねた色事によって患った梅毒が彼の人生に影を落とし、戦傷の治癒に時間がかかり、早くに病没した原因となった。また妻の不貞や二人の娘の離婚など家庭的にも不遇で、親密だったフリードリヒ大王とも不和となり、死の数週間前に漸く和解した。

ちなみに、二人の娘は子孫を残すことができなかった。


客船「ザイドリッツ」

ノルトドイッチャー・ロイド(NDL)社の客船(7,942GRT)で、第一次世界大戦病院船として徴用された。

1902年、進水。

1903年、就航。

1933年、解体。


巡洋戦艦「ザイドリッツ」

同型艦はない。

艦名はフリードリヒ・ヴィルヘルム・フォン・ザイドリッツ=クルバッハに由来する。

モルトケ級巡洋戦艦の航用性を増す為に船体を拡大したものでフォン・デア・タン級巡洋戦艦に始まる第一世代ドイツ巡洋戦艦の最終形態とされる。ジュトランド沖海戦ユトランド沖海戦)での強靭な防御力で有名。

→ 詳細は「wikipedia:ザイドリッツ_(巡洋戦艦)」を参照。


性能諸元

常備排水量24,988t
満載排水量28,550t
全長200.6m
全幅28.5m
機関石炭・重油混焼缶×27基 高速型・低速型直結タービン×2組 4軸推進
最大出力63,000馬力
最大速力26.5ノット
武装
  • 28cm連装砲塔×5基
  • 15cm単装砲×12基
  • 88mm単装砲×12基
  • 50cm単装魚雷発射管×4基
装甲水線300mm 甲板80mm 司令塔300mm 主砲前盾250mm 主砲天蓋70mm
乗組員1,068名

艦歴

1911年2月4日起工、1912年3月30日進水、1913年5月22日竣工。

8月17日、就役。大海艦隊第一偵察戦隊に配属。


1914年6月23日、第一偵察戦隊司令官フランツ・フォン・ヒッパー少将の旗艦となる。

8月28日、ヘルゴラント・バイト海戦に参加。

11月3日、巡洋戦艦モルトケフォン・デア・タン、装甲巡洋艦ブリュッヒャー、軽巡洋艦4隻と共にヤーマスを砲撃。

12月16日、巡洋戦艦モルトケ、装甲巡洋艦ブリュッヒャーとハートルプールを砲撃。


1915年1月25日、巡洋戦艦モルトケ、デアフリンガー、装甲巡洋艦ブリュッヒャー、軽巡洋艦4隻、水雷艇18隻を率いてドッガー・バンク沖で作戦中、イギリス海軍の迎撃を受け、第四・第五砲塔を損失。(ドッガー・バンク沖海戦

8月3日、第一次リガ湾進攻作戦に参加。

11月24日、カイザー・ヴィルヘルム運河で座礁。


1916年4月24日、第一偵察戦隊司令官代理フリードリヒ・ボーディッカー中将の旗艦としてヤーマス、ロストフト砲撃作戦中に触雷。この為、ヒッパー中将は旗艦を巡洋戦艦リュッツォウに変更。

5月31日、巡洋戦艦リュッツォウ、デアフリンガー、モルトケ、フォン・デア・タン、軽巡洋艦10隻、駆逐艦30隻と共にスカラゲック海狭に行動中、イギリス海軍大艦隊と交戦。巡洋戦艦デアフリンガーと共同でイギリス海軍巡洋戦艦クイーン・メアリーを撃沈するが、砲弾四発を被弾し第四砲塔は旋回不能となる。

その後、英独海軍本隊も更に加わったこの一大海戦海戦終了時には21発の砲弾を被弾して全砲塔が沈黙し、魚雷一本被雷により艦首部からの2,300トンに及ぶ浸水で一時航行不能となるも、第一砲塔弾薬庫密閉で得た浮力により3ノットの速度でヴィルヘルムスハーフェンに帰投した(ユトランド沖海戦)。

大破归港的塞德利茨


1917年10月26日、ユトランド沖海戦で失われたリュッツォウに代わり継承していた第一偵察戦隊旗艦を巡洋戦艦ヒンデンブルクに譲る。


1918年、第一次世界大戦が終結。休戦条約によりスカパ・フローに回航され抑留される。


1919年6月21日、講和条約案の内容に不満な抑留艦隊司令官ルートヴィッヒ・フォン・ロイターの命令で、スカパ・フローに抑留されていた他の大海艦隊艦艇と共に乗員の手により自沈した。

帝政ドイツ海軍 大巡洋艦ザイドリッツ号


重巡洋艦

アドミラル・ヒッパー級重巡洋艦の四番艦として起工されたが未成に終わった。

1936年12月29日起工、1939年1月19日進水。

11月4日、建造中止。

1942年6月、軽空母へ設計が変更される。

12月、ヴェーザーと改名され工事が再開。

1943年6月、建造中止。ケーニヒスベルクに回航される。

1945年4月10日、自沈した。

航空母艦「ザイドリッツ」航空母艦「ザイドリッツ」


関連タグ

プロイセン王国 フリードリヒ2世(プロイセン)

ドイツ海軍 航空母艦 巡洋戦艦 客船 病院船 アドミラル・ヒッパー級重巡洋艦

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