概要
関西精機製作所は、1955年(昭和30年)に技術者である古川謙三氏により京都千本通に創業された(後に西京極へ移転)、ブランド名を”Kasco(キャスコ)”とするエレメカのゲームメーカー。
但し、主力となったエレメカだけに留まらず、世界初のあんま機やカラオケを商品化しており、また自社による製造販売のみならず、ピンボールやジュークボックスなどの海外製品の輸入販売も行っていた。
高度成長期の時代にあって残業は無く、忙しくても10時と15時にお茶の時間があったり、大臣が亡くなったからと昼から仕事を休みにするなど、当時は疎か現代にあっても珍しい社風であったという。
歴史
古川氏は島津製作所、次いで村田機械に勤務した後に独立。
まず始めはホンダに先駆けて自転車用エンジンを造ったが不具合等でうまくいかなかったところ、友人である阪急百貨店の屋上コーナーのオペレータに館内案内機の製造を頼まれたことが切っ掛けで、1955年1月に関西精機を創業。製造した案内機『ステレオトーキー』は数千台を売る大ヒット作となった。
更に「屋上の方で子供に見せるような機械」の製作を打診され、『ビューボックス』という日本昔話などを写す、両目を当てて覗き込むタイプのエレメカを販売、ロングヒットとなる。
1958年、イギリスのマイヤーズ社が販売したドライブゲーム『Road Test』のフォロワーゲームとして『ミニドライブ』を製造販売。2,000台を売り上げるヒット商品となった。
1968年、自車とコースをセルロイドフィルムに変え、影絵のように投影する方式の『インディ500』を製造販売。これも2,000台を売り上げるヒット作となったのみならず、古川氏と交流のあった中村雅哉氏の会社「中村製作所(後のナムコ)」からそのフォロワーゲーム『レーサー』、『フォーミュラX』、『F1』が、「太東貿易(後のタイトー)」からは『ロードセブン』が発売されるほどの影響力を為した。
のみならず、関西精機の許諾を得てアメリカの「シカゴコイン社」が販売したコピーゲーム『SPEEDWAY』は、アメリカ国内で10,000台も売り上げ表彰までされている。
1971年、通算産業大臣より輸出安定拡大に関して表彰される。
1973年、ビクターと共同制作したクジラが小魚を食べるビデオゲーム『プレイトロン』をAMショーにて発表。
当時はAtariのPONGが販売されて間もない頃で、しかもカラーモニターを用いるという画期的な製品であり、日本製初のビデオゲーム(しかもカラー)となり得たものであったが、途中で交代したビクターの社長がアミューズメント業界への参入に否定的であったために世に出ることは無かった(関西精機のみでやるなら協力しますとビクター側からは言われたが、関西精機のみでやる技術力が不足していたため断念したという)。
1975年に世界初のホログラム技術を利用したレーザー光線によるガンシューティングエレメカゲーム『ガンスモーク』を製造販売。
1979年、『ステレオトーキー』の頃より関係のあった東映の製作による8mmフィルムの実写映像を使用した、LDゲームの前身ともいうべきゲーム『ザ・ドライバー』を販売。
当時はスペースインベーダーが世を席捲し、以降より遊技場の主流もビデオゲームに移行していったが、それでも尚エレメカ製造にこだわり続けた(任天堂からビデオゲーム製造協力の打診もあったが断ったそう)。
1983年、「京都風俗環境浄化協会」より、健全娯楽を通じ青少年の健全育成と風俗環境浄化活動を積極的に推進したとして表彰される。
1991年、古川謙三氏の長男である古川純一氏が2代目の社長に就任するも、純一氏は1993年に病で逝去。会社が斜陽化していたこともあり、謙三氏は翌年に会社の解散を決断した。