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池田勇人の編集履歴

2012-08-11 12:55:12 バージョン

池田勇人

いけだはやと

(明治32年12月3日~昭和40年8月13日)  第58・59・60代内閣総理大臣。正二位大勲位。経済大国への舵取りを担った。

明治32年、広島県吉名村(現竹原市)の酒造業を営む家に生まれた。

中学校を卒業後、一高を受験したが失敗し、翌年、五高に行くことになった。

池田の盟友であり集成のライバルである佐藤栄作も同じように一高に落ち、五高に進んだ。

池田はその後、京都帝大を卒業、大蔵省に入省した(ちなみに佐藤は鉄道省である)。

しかし、宇都宮税務署長に赴任した際に、大病が池田を襲った。

不治の病と言われる難病で、妻の直子はこの時の看病疲れで亡くなり、池田自身も大蔵省を休職することとなった。

しかし池田は遠縁の娘・大貫満枝の献身的な看病で遂に回復し、満枝は後に池田の妻となった。


一度は大蔵省への復帰を諦めていた池田だが、同僚や上司の勧めによって復職、地方回りをしたのち本省主税局に入り、昭和20年、主税局長となった。

主税局長就任の半年後に、日本は敗戦を迎えるが、この敗戦が池田の運命を大きく回転させることになる。

遅れて開始したキャリアのおかげで、多くの同僚や先輩を襲った公職追放の網にかからず、一躍、石橋湛山蔵相のもとで大蔵次官になるというチャンスをつかんだからである。

その後、片山哲の社会党内閣が成立すると、実務に疎い閣僚に代わって各省次官の次官会議が実務を運営し、池田はその中で頭角を現すと同時に、政治家転身を真剣に考えるようになった。


昭和23年に大蔵省を退官し、出馬の準備を固め始めていた池田は、翌昭和24年の総選挙で広島二区から初当選し、一年生議員にして大蔵大臣に大抜擢された。

当然党内の反対が渦を巻いたが、吉田茂首相は「池田君は数字に明るいからね」と言って、これを押し切ってしまった。

池田蔵相の初仕事は、アメリカから派遣された銀行家ジョセフ・ドッジと共に超均衡予算を組み、経済の自立を促すための超緊縮政策「ドッジ・ライン」を実施することであった。

その結果、インフレは押えられたが、逆に金づまりがひどくなって中小企業を中心に倒産が続出した。

二年半以上後、野党三派が上程した池田通産相の不信任決議案が可決され、池田は辞任したが、国務大臣の不信任決議案通過はこれが戦後初めてのケースであった。


昭和28年に「バカヤロー解散」の後に成立した第五次吉田内閣はすでに国民の支持を失い、吉田を支える側近は池田勇人と佐藤栄作のみになった。

池田は昭和29年7月に自由党幹事長となり、10月には首相特使として訪米、ロバートソン国務次官補と防衛・経済援助について会談を行ったが、11月に反吉田の日本民主党が鳩山一郎を党首として結成され、12月にはついに吉田内閣が総辞職、鳩山内閣が成立した。

池田は昭和30年11月の自由民主党結党に参加、鳩山後継の総裁選では石橋湛山を推し、蔵相として入閣、同内閣を継承した第一次岸信介内閣でも蔵相を担当した。

昭和32年7月の内閣改造で一度は内閣を離れるが、昭和33年6月の第二次岸内閣では無任所の国務相として入閣。

昭和34年12月、警察官職務執行法改正問題で岸首相の責任を追及していた三木武夫経企庁長官。灘尾弘吉文相らと共に辞任し、宏池会(池田派)を結成した。

昭和34年6月の内閣改造では周囲の反対を押し切って通産相として入閣。


安保条約改定をめぐっての苛烈な反対闘争の末に、改定安保条約が発効すると岸内閣は混乱の責任を取って総辞職し、昭和35年7月、池田が後を襲った。

池田は内閣総理大臣就任の記者会見で「『乏しきを憂えず、等しからざるを憂う』という言葉があるが、私は『乏しきをも憂う、等しからざるをもまた憂う』」と述べ、「所得倍増」の信念を披瀝した。

昭和35年10月には浅沼稲次郎社会党委員長刺殺事件があったが、池田首相は心からの弔意を表して暴力の一掃を訴えた。

更に11月の総選挙では300議席という数を確保し、池田の人柄や政治姿勢もさることながら、その所得倍増政策が国民の多くの支持を得た。

日本の国民の平均的生活水準が「中流」レベルに達したのが、池田時代であったといってよいであろう。

しかし池田政権末期ともなると、高度成長の歪みが少しずつ国民の間にも認識されていくようになった。


また池田内閣期の昭和35年に、三重県出身の浜地文平代議士が質問状を提出した。

伊勢神宮は占領下にあって民間の一宗教法人として存続することを余儀なくされていたが、そのご神体である八咫鏡はどういう性格のものであるか、疑念を晴らすための質問であった。

それに対して池田首相は正式な答弁書の中で、伊勢の神宮に奉祀されている神鏡は、皇祖皇孫にお授けになった八咫鏡である、それは、代々皇室が受け継いで、ある時期から、それを神宮が預かっているので、その扱いについては、これまでも皇室に相談してきたし、これからも、そうすべきものと考えている、という意味の政論を回答した。


池田政権時代の高度成長の到達点を示すのが、昭和39年、カラー放送で全世界に中継された東京オリンピックであった。

また池田内閣の最後の課題の一つも、東京オリンピックを成功させることであり、池田はこのオリンピックに夫人と共に出席した。

しかし、その時すでに池田の身体はに冒され、池田も再起不能であることは覚悟していたようである。

そして東京オリンピックのフィナーレと共に、池田は首相辞任を表明した。

池田にとって残された課題は、高度成長から取り残された農林水産業の近代化、中小企業の振興、高度福祉社会の建設であったが、それらは後継者に託さざるを得なかった。


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