誘導
- 『ラヴヘブン』の登場人物→北原白秋(ラヴヘブン)
- 『文豪とアルケミスト』の登場人物→北原白秋(文豪とアルケミスト)
概要
1885年生、1942年没。
本名は北原隆吉。
因みに、実際に生まれた場所は、母が一時的に実家に帰省していた熊本県だった。
歌人としては与謝野鉄幹の「明星」で与謝野晶子らと同人、「多磨」主宰。
詩人としては、同じく「明星」同人を経て、「パンの会」の一員、「朱欒(ザンボア)」主宰、『邪宗門』『思ひ出』等の詩集が有名。
作詞家としては、「ペチカ」「赤い鳥」「あわて床屋」等、多くの童謡を作詞した。
谷崎潤一郎とは友人。
石川啄木の最大の被害者のひとりであり、そのせいでスキャンダルが騒がれた。
しかし童謡作詞でカムバックした。
ヘビースモーカーかつ、林檎が大好物で、林檎をテーマにした詩が多い他、没する前の最後の食物も林檎であった。
作家としての業績は大きいが、その分自信家でもあった。元からのお坊ちゃん気質もあってか、全集の手紙や雑誌・著書に載せた声明を見てみると、尊大さがあちこちににじみ出ている。
弟子で秘書でもあった藪田義雄の回想によると、晩年以外は、弟子にもはっきりした指導をせず、すぐに怒りだす様な性格だったらしいが、「多磨」主宰となってからは細かい指導もする様になったとの事。
その作家としての作品傾向も、歌人であり詩人でもあるという点でつかみにくいが、どちらも浪漫派の傾向にあり、時代の大勢を占める様になっていた写生主義の短歌(正岡子規等)や民衆詩・プロレタリア詩とは一線を画していた。
晩年に「多磨」で積極的な指導をしたのも、アララギ派の全盛によって鉄幹が忘れ去られているのに複雑な感情を抱いていたからかもしれない。
前半生
実家は豊かな造り酒屋だったが、火災などにより次第に没落。
残された資産も主に白秋が食い潰してしまうのだが、それは後の話。
中学時代に詩に目覚め、東京に出てから与謝野鉄幹らと知り合い、「明星」で活動。鉄幹、吉井勇、木下杢太郎、平野万里と5人で九州旅行に出て、その時に集団執筆した旅行記が「五足の靴」である。
処女詩集『邪宗門』では絢爛にして幻想的な美の世界を創造する(一応、内容は異国情緒が中心で、キリスト教とは特に関係ない)。
その後、とうとう実家は破産してしまい、両親や弟達を東京に連れて来ながら詩作に励むが、夫と別居中の女性との恋愛が発覚し(当時は、離婚していない女性と関係を持つと姦通罪となった)投獄されてしまうというスキャンダルを起こす。
実刑は免れ、その女性と結婚するものの、一時的に三崎や父島に移ったり、離婚したり、別の女性詩人と再婚して市川や小岩に住んだりしながら詩作するが、やはり生活は苦しかった。
後半生
と、ここまでは当時の文士にありがちな破滅人生すれすれ状態だったが、人生の転機になったのは、小田原に移り、鈴木三重吉からの頼みで雑誌『赤い鳥』に童謡・児童詩を発表するようになってからだった。詩集・歌謡集・童謡集・創作民謡を多数出す様になり、生活もようやく安定してきたが、家を建てた際にあまりにも派手な祝宴を開き、弟達に一方的になじられた(2人目の)妻が失踪、のちに離婚してしまった。
しかし再婚し、息子も生まれ、山田耕筰とのコンビによる名童謡も多数生みだし、童謡作家の第一人者となった。
この頃から、長い間離れていた短歌の世界に徐々に復帰している。
東京へ戻った白秋は、相変わらず多作の日々を送るが、仕事の上で菊池寛や鈴木三重吉と悶着を起こし、三重吉とは断交までしている。
また、詩や童謡を作る数が次第に減って行き、仕事の重点は短歌へと移っていった。
旧師であった鉄幹の没後は、短歌結社「多磨」を設立し、主宰として指導にもあたる。
眼底出血で視力のほとんどを失ったが、作品を整理して詩集・歌集とする作業も並行して続けた。
また、戦時中は軍歌や戦時歌謡もよく作詞している。
晩年の白秋の作品の多くは、(他の詩人や歌人にもままある事だが)大変に戦争賛美的なもので、およそ気が狂った様にしか見えない酷い代物と成り果てており、歌集が戦後に再版された際に章をまるごと削除された事もあった。
亡くなる直前には全国の民謡・童謡の研究を手がける構想もあったが、生前には実現できず、木俣修や藪田義雄ら弟子により引き継がれた。
歌集の編集も生前には終わっておらず、一部は第二次世界大戦の終戦後までずれ込んでいる。