概要
当時の権力者藤原仲麻呂(恵美押勝)が軍事力で起こした反乱だが、孝謙上皇によって鎮圧された、近年の研究では仲麻呂は反乱の意向は無く孝謙上皇側から動いた事件であり孝謙上皇の乱ともいう。
発端
藤原武智麻呂の嫡子である仲麻呂は聖武天皇朝から順調に出世を重ねており淳仁天皇からは「恵美押勝」と名を与えられた。しかし、実際は天平宝字4年(760年)に叔母光明皇太后の崩御によって仲麻呂の政権は徐々に衰退しており(ちなみに皇太后崩御から反乱まで仲麻呂の一族3人死亡している)、さらに従姉妹でもある孝謙上皇が道鏡を寵愛したことによって仲麻呂・淳仁天皇と孝謙上皇・道鏡の対立が激化することになった。
挙兵
仲麻呂は危機感を感じ督四畿内三関近江丹波播磨等国兵事使となり諸国から兵を招集し上皇の咎を告発計画、淳仁天皇の兄船親王と池田親王も仲麻呂の計画に参加した、仲麻呂は動員令を大外記の高丘比良麻呂に託した。しかし比良麻呂は自身に責任が及ぶのを恐れ上皇に密告をし挙兵の計画が発覚することになった。比良麻呂の他に陰陽師の大津大浦からも密告があった。
戦乱
密告を受けた上皇は少納言の山村王に天皇から御璽と鈴印を奪うよう指示を出す、仲麻呂は三男訓儒麻呂に山村王から鈴印を取り戻すよう指示を出し訓儒麻呂は御璽と鈴印を取り戻したが上皇からの授刀衛坂上苅田麻呂(坂上田村麻呂の父)・道嶋嶋足によって訓儒麻呂は射殺された、仲麻呂は矢田部老に御璽と駅鈴の奪還を試みるが紀船守に射殺された。
仲麻呂側の動向
仲麻呂は再起を図る為に平城京を脱出し近江国へ向かい、瀬田の唐橋を突破し近江国の国府に入ろうとするが上皇側の兵によって橋が焼かれ進路を阻まれしまう。仲麻呂は琵琶湖の左側に進路を変えて越前国に向かった。仲麻呂は天皇を連れ出すことができず、塩焼王(天武天皇の皇子・新田部親王の子)を連れ出し王を「天皇」として擁立して対抗手段をとった。
越前国の国司は仲麻呂の八男辛加知、美濃国の国司は仲麻呂の九男執棹であった。
上皇側の動向
天皇から鈴印を奪った上皇は仲麻呂追討令を出し、仲麻呂逃亡阻止のために関所封鎖の通告、仲麻呂の家族の官位、氏姓を剥奪し追討軍の指揮官を仲麻呂と因縁深い吉備真備に任命させた。反仲麻呂派の貴族達も兵を出し仲麻呂追討に加わった。真備は先手を打ち仲麻呂より先に追悼軍を近江国の国府に向かわせ淡海三船に仲麻呂の使者を捕えるよう命じ瀬田の唐橋を焼き仲麻呂の行手を阻んだ、上皇側の兵は琵琶湖の右側から仲麻呂より先に越前国に入り国司辛加知を殺害さらに越前国と近江国の境の愛発関を封鎖する。
両軍の衝突
上皇側の兵によって越前国と愛発関を固められ仲麻呂の軍は三尾(滋賀県高島市)まで後退、現地で上皇の兵と戦うが、仲麻呂の従兄弟で反仲麻呂派の藤原蔵下麻呂の援軍によって大敗。敗れた仲麻呂は家族と共に舟を出し逃亡を図るが兵士の石村石楯に捕らえられ斬首され仲麻呂の家族や仲麻呂一派の貴族に塩焼王も斬られた。
事件後
仲麻呂の六男・刷雄や仲麻呂と対立関係にあった長兄・豊成やその息子たちを除いて仲麻呂の一族や仲麻呂派の貴族達は殺され一部は流罪となった。淳仁天皇は事件後に廃位宣告を受け淡路国に流罪となり、その親族である舎人親王系統の皇族も臣籍降下を受け流罪となった(天皇の兄船親王と池田親王は王に格下げされ前者は隠岐国、後者は土佐国へ流罪)。皇位は孝謙上皇が重祚し称徳天皇となり道鏡と共に独裁政治を行う事になる。