概要
歴史
元々は室町幕府初代将軍・足利尊氏の四男・基氏を祖とする鎌倉公方家を大本とする。その後基氏の玄孫である5代当主・成氏の時に、下総古河(茨城県古河市)に本拠地を移し古河公方と名乗った。
1517(永正14)年、成氏の孫である古河公方3代当主・高基とその弟・義明の間で嫡流争いがおこり、義明は小弓城(千葉県千葉市)を本拠に小弓公方を名乗ったが、1531(享禄4)年の第一次国府台合戦で義明と長男の義純が高基の嫡男・晴氏、北条氏綱・氏康親子に敗れ戦死したことで小弓家は滅亡、次男の頼純は里見氏を頼って安房へ落ちのびた。
古河家も1546(天文15)年の河越合戦で北条氏康に敗れて以降没落し、1583(天正11年)に高基の孫で5代当主・義氏が嫡男が無いまま没したため、その娘・氏姫が当主代行を務めた。
1590(天正18年)、豊臣秀吉による小田原攻めにより後北条氏が滅んだ後、頼純の長男・国朝が下野喜連川(栃木県さくら市)に4,000石を与えられるとともに、氏姫と結婚させられた。しかし、古河公方側からすれば国朝は古河公方に謀反を起こし独立した義明の孫、小弓公方側からすれば氏姫は義明の仇である晴氏の孫という認識であり双方の家臣は激しく対立した。1593(文禄2)年、国朝は文禄の役従軍中に安芸国で死去したため、弟の頼氏が跡を継ぎ氏姫と再婚した。
頼氏はのち姓を足利から喜連川に改め江戸時代になり喜連川藩主として明治維新後の廃藩置県まで続き、明治時代に足利の姓に復し子爵に叙爵された。
古河・小弓公方家及び喜連川藩歴代当主
古河公方家
- 足利成氏
- 足利政氏:成氏の長男
- 足利高基:政氏の長男
- 足利晴氏
- 足利義氏:晴氏の次男、母は北条氏康の娘
- 足利氏姫
小弓公方家
- 足利義明:政氏の次男
- 足利頼純
喜連川家
藩祖 足利国朝
- 足利(→喜連川)頼氏
- 喜連川尊信:頼氏の長男・義親の子
- 喜連川昭氏:尊信の長男
- 喜連川氏春:宮原義辰(古河公方家庶流、旗本)の次男
- 喜連川茂氏:氏春の長男
- 喜連川氏連:茂氏の次男
- 喜連川恵氏:加藤泰衑(伊予大洲藩主、茂氏継室の甥)の庶長子
- 喜連川彭氏:恵氏の長男
- 喜連川煕氏:彭氏の三男
- 喜連川宜氏:細川興文(肥後宇土藩主)の曾孫
- 喜連川(→足利)縄氏:徳川斉昭(常陸水戸藩主)の11男で15代将軍・徳川慶喜の弟。