Islamic Calligraphy
イスラームの書法
葦ペン(qalam)、インク壺など書道用具一式
イスラームの書法 ( Islamic Calligraphy ) は、イスラームとアラビア語が互いに影響を及ぼし合って進化したアラビア文字の書法で、イスラーム芸術のひとつとも言える。狭義にはアラビア語に限定する。日本での第一人者は本田孝一である。
アラビア書道・ペルシア語書道は、イスラーム芸術の一つ。紙に文字を書き表すのみならず、モスクの壁や天井などにも用いられる。その幾何学的な姿は文様としてヨーロッパなどからアラベスク(文様)と呼ばれる。現代イスラーム世界の芸術家もなお、その銘ずるところ、さらには抽象概念をも装飾書法(カリグラフィー)をもって表現する。
ムスリムにとってアラビア書道はイスラーム芸術の中でももっとも高級かつ精神的なものとされる。
神によって音として発された言葉の威厳・美を、実際の朗誦によってではなく文字によって視覚的に示す高度な表現法だからである。
またアラビア文字は信仰とともにムスリムの語る諸言語を繋いできた。
したがってその芸術的表現である書道も同様で、ここにも諸芸術に高い地位を占めるに至る要因があると論ぜられる。
アラビア語の発展と浸透に寄与してきた聖典クルアーン(コーラン)は装飾書法の発展にも多大な影響を及ぼし、クルアーンの章句は書法発展の活発な源であり続けている。
歴史
ナバタイ文字の影響を受けた北アラビア文字は、アラビア半島北東部で確立され、ヒーラとアンバール(現イラクの一部)に居住したアラブ人の間で5世紀ごろ全盛を迎える。アラビア半島西部のヒジャーズ(現サウジアラビアの一部)にまで拡がり、ハルブ・イブン・ウマイヤによってクライシュ族(預言者ムハンマドの一族)の上流階級の間で普及するようになった。
初期のアラビア語史料は、都市ごとに複数の書体の存在していたことに言及するが、これらは概ね二つのスタイルに分類することができる。すなわち楷書的書体dry stylesと草書的書体moist stylesであり、前者は初期クーフィー体の起源となり、後者は多くの書体へと発達する筆写体の起源となった。
筆写体の歴史はイスラーム教の普及以前(ジャーヒリーヤ)まで遡る。この時期、筆写体はクーフィー体(未だ各文字を独立した形であらわし、続け書きをしていない)とならんで用いられた。発達初期の筆写体は、規則性、優雅さに欠け、通常、宗教的な目的のために用いられることはなかった。
ウマイヤ朝とアッバース朝の時代には、広大な領域を治める宮廷は通信や記録保存のため筆写体を必要とし、多くの書体が考案されるようになる。
いくつかの書体は、この現実的要求に従って開発されたものである。兄弟とともにバグダードにおける洗練された初期書家の一人となったアブー・アリー・イブン・ムクラ(940年没)は、後にアッバース朝の3人のカリフの下でワズィール(宰相)となり、文字の均整に厳密な書法体系を考案したと考えられている。イブン・ムクラの書法は、点を行間隔整列のために、アリフ(アラビア文字の第一字母)と直径を等しくする円を、文字の大きさを揃えるため、それぞれ単位として用いるものである。
イブン・ムクラによる筆法の考案以降、筆写体の発達と標準化は著しく進展することになる。
筆写体の位置づけは向上し「クルアーンを書くに値するもの」としての地位を獲得、受容されるに至る。
千夜一夜物語に出てくる、サルに変えられる王子は3種のアラビア書道の達人である。
装飾書法
書道作品も他のイスラーム的芸術品とともに展示されることが多いが、これは書道が諸芸術とも共通する芸術的着想をもつためである。また書道の実践は哲学的思惟・議論の対象でもあった。
装飾的な書道作品は、華美・複雑であり、文字としてほとんど読めないほどとなるが、装飾書法が芸術段階にまで発展した理由の一つには偶像崇拝忌避に起因する具象的芸術への宗教的規制を挙げることが出来る。
初期イスラームでは、クルアーンの伝承は大部分、ハーフィズとよばれる暗誦者(内容すべてを暗記した人々)の記憶によるものであった。このような伝承の方法は信頼性を欠くものであり、また多くのハーフィズが陣中に時ならず斃れていった結果、断片に代えて、一冊の書物としての編集が決定された。
クルアーンは神すなわちアッラーの言葉であり、ムスリムにとって本質的に神聖なものである。このため、本としてのクルアーンの制作においては、その品質・可読性が重視される。
またイスラーム教には絵画表現に対する禁忌があるため、キリスト教世界のような絵画の挿入は不可能であった。これらの要因から、装飾書法はイスラーム世界で非常に重要なものとなったのである。今日にいたるまで書道は主要芸術体系の一つで、書家は非常に尊敬される職業である。クルアーンの教義を考慮した書道芸術における美学性もまた、イスラームのもつ統合性の一つの側面を表すものである。
装飾書法の歴史
11世紀頃からイランを中心に流行した東方クーフィー体。独特のシャープさを特徴とする
786年前後、ハリール・イブン・アフマド・アル=ファラーヒディーによってアラビア文字はほとんど固定された。これ以降、クルアーンを書き記すなど書物に用いるための書体、装飾として碑銘に用いる書体の双方が考案されてゆく。
最初に広まったのがクーフィー体である。角張って四角く、水平方向に比較的短く、長く太い縦棒と小さい丸で構成される。イスラーム初期の300年間にわたって、クルアーンは主にクーフィー体を用いて記された。クーフィー体は静的、すなわち動きの少ない安定感のある書体であり、碑文にもふさわしかった。また、それぞれの文字にセリフ(ひげ線)や小さな装飾を加えた派生的書体も多く作られた。
日常的な筆記によく用いられたのは、丸みを帯びた細い筆写体、ナスフ体(ナスヒー体)である。
やがてナスフ体は筆記技術が改良され、クルアーンを書写する書体として、クーフィー体よりも好まれるようになった。たいていの子供たちは、まずナスフ体を習い、ついでルクア体を習う。
アラビア語印刷物のほとんどはナスフ体による。これは混乱を避けるため、そして子供たちが手本とする書体であるからである。印刷物で用いる明快で可読性が高い書体をモダン・ナスヒー体という。
13世紀には、クーフィー体が担った装飾的書体の役割をスルス体が担うようになる。スルス体は「3分の1」を意味しており、各文字の下部3分の1を左下方向に曲げてゆく原則から来ている。この書体は筆写体の側面も持ち、ふところの大きい曲線を基調に書かれる。
イスラームは東方へも拡大し、ペルシア人はペルシア語の表記にアラビア文字を用いるようになった。ペルシア人の書道への貢献はタアリーク体およびナスタアリーク体の呼ばれる書体である。これらはきわめて曲線的で流れるような書体である。
水平方向の筆遣いが極端に長く、垂直方向の線が一般的な左方向ではなく、右方向へと曲げられることもある点が特徴となる。ナスタアリーク体は特に流麗な書体である。またペルシア人の考案によるものにはシェキャステ体もある。シェキャステとは「崩された」という意味で、前の文字が後ろにつながるというアラビア文字の規則を破っている。
ディーワーニー体は、オスマン帝国で16世紀から17世紀初期にかけて成立した筆写体である。これはフサーム・ルーミーによって考案され、スレイマン1世(1520-1566)のもと人気を博した。この書体は装飾性と読みやすさを兼ね備えており、文字に使われる線の複雑さと語中の文字の並列的な接近が特徴。
ディーワーニー体のバリエーションとしてジャリー・ディーワーニー体があるが、これは大量の装飾的記号が特徴的。
21世紀初頭現在、もっとも一般的に用いられるのがルクア体である。書法は単純簡潔であり、振幅は小さく筆先の移動量は少なくなる。ナスフ体からのステップアップとして扱われ、子供たちは進級するとこの書体を教えられる。
イスラーム書家の従来の器具はカラムという葦の茎を乾燥させたペンである。カラーインクを用いることも多いが、大きく色合いの異なるさまざまな色を選び出す。大きなストロークと相まって、見る者にダイナミックな印象を与える。
アラビア書道は西洋世界とは異なり廃れることはなかった。
アラビア文字はラテン文字と違い筆写体が本来の姿である。クルアーンやハディース(預言者言行録)、あるいは単なることわざの章句などを書き留めるが、その際は鑑賞されることを意識した目を見張るような構成を用いた作品として仕上げられ、判読できないほどのものになってしまうことも多い。その構図は多くの場合、著しく抽象的なものであるが、時に動物の姿をかたどることもある。現代、この分野での名匠にハサン・マスウーディーがいる。
中国ではスィーニー体という書法が考案されていた。
現在における有名な書家はハーッジー・ヌールッディーン・米廣仁である。
イスラーム世界の諸芸術のなかでも最もイスラーム的な芸術たる書道は、象徴としての側面を持っている。最も多用されるのは「アッラーフ(الله)」「ムハンマド(محمد)」などの語や「バスマラ」の句などである。
また、微少な文字で大きな文字[1]を表現したり、他のものの形を表現したりするマイクログラフィー技法も使われる。
語を組み合わせての擬人化による祈る人
(顔の部分は神秘主義における理想的人間たるアリーの名で書かれている)や動物文(シーア派関連の図像がほとんどでライオンやアリーの愛馬ドゥルドゥル、コウノトリ、クルアーンのフドゥードという鳥)や、アリーの剣「ズー・アル=フィカール」、モスク、船(アラビア語文法で英語のandを表すアラビア文字ワーウで構成される。
これは神秘的合一を象徴する)などの無生物もモチーフとされる。放送局「アルジャジーラ」の企業ロゴも、ディワーニー体で雫状にまとめた「 الجزيرة 」の文字である。
これらの作品は17世紀以降のトルコ・ペルシア・インドなどのイスラーム神秘主義との関連を想起させるもので、以上のようなモチーフを多くの一流書家も好んで書いた。
書法の教授法においては描く文字を視覚化するために比喩的なイメージが用いられた。
ナスタアリーク体における語頭のハー(ペルシア語ではヘー)は「ヘー・ド・チェシュメ」と呼ばれるがこれは「二ッ目のヘー」という意味である。
文学や詩の文字を自然の事物に見立てて書き出す技法はアッバース朝期にさかのぼるものである。