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三条西家

さんじょうにしけ

三条西家とは公家の家格の大臣家の一つ。
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重要

別名は西三条家(にしさんじょうけ)ともいう。正親町三条家の分家でありながら家格は本家のそれをしのぎ、三大臣家の中でも別格とみなされていたばかりか、室町時代から江戸時代初期にかけて右大臣をたびたび出したため、その家格は清華家とほぼ同格とみなされていた。閑院家嫡流の転法輪三条家にもたびたび養子を出したため、戦国時代以後の転法輪三条家の直接の血統は三条西家のものとなっている。江戸時代の家禄は502石。 維新までは三条西と西三条の双方を比較的自由に使っており、明治になって17代公允伯爵に授爵されたのを機にこれを西三条に一本化したが、しばらくしてこれを三条西に替えている。通字は「」「」「」。分家に押小路家武者小路家高松家がある。

歴史

南北朝時代

南北朝時代後期、正親町三条実継の次男の権大納言三条西公時を祖とする。公時の子実清権中納言在任中に死去したため、次の世代の公保は本家である正親町三条家から養子に入り、生家の家格を引き継いだため、大臣家の家格を有することとなった。

室町時代

三条西家の当主は代々和歌に優れたが、そもそも三条西家と歌道との関係は正親町三条家時代の正親町三条実継に始まる。実継は二条為明の弟子となり、二条派一門の古今伝授継承者に名を連ねた。また三条西公保も古今伝授継承者である二条派尭孝の弟子であった。室町時代後期の三条西実隆は二条派宗祇に師事し歌人、書家として名をなした。また、三条西家の家業となる「香道(御家流)」も、この時期より始まった。

戦国・安土桃山時代

戦国時代の三条西実隆、三条西公条、三条西実枝は和漢に精通し、実隆・公条・実枝の3人は三条西三代と呼ばれる。三条西家による歌学の継承は、三条西実枝のあと、本来は三条西公国が継ぐべきであったが、実枝が老齢に達したおり未だ幼かったため、三条西実枝の高弟細川幽斎が中継ぎとして古今伝授を受け、三条西公国の成人をまって伝えた。しかし、三条西公国が早世してしまったため、幽斎は師実枝との生前の約束を誠実に果たすべく再び公国の子の三条西実条に伝えなおしている。実条は武将でもあった師幽斎が関ヶ原の戦いで居城田辺城を敵軍に包囲されており、後陽成天皇の勅書を携え丹後まで下向している。

江戸時代

三条西実条のあとは三条西公勝が継いだ。また実条の第二子三条西公種武者小路家の祖)第三子西郊実号(西郊家のちの高松家の祖)が分家独立し、それぞれ家を立てた。以降、江戸期を通して歌道は三条西家一門の家職的学問となる。

藤原定家の子孫としては冷泉家が知られているが、実際には、室町時代から明治期にいたるまで、二条家正嫡流を伝承する三条西家が、定家の後継者として、歌壇の主流を占めた。公勝のあとは三条西実教が継いだ。実教は二条派宗家としての誇り高い歌人であった。公勝の子で、実教の弟である公音は分家独立し押小路家を立てた。

江戸時代初期の女性で、江戸幕府3代将軍・徳川家光の乳母として有名な春日局も三条西家に縁のある人物で、三条西実条と猶妹の縁組をし、公卿である三条西家の息女として御所に参内し、局号を許された。実条は武家伝奏となり官位も右大臣まで昇進した。公勝は若くして亡くなったため実条は、孫に当たる三条西実教に古今伝授をした。また実教も晩年になるまで継嗣に恵まれず、嗣子となる公福を得たのは79歳の時であった。実教の高弟には鍋島光茂がいる。三条西公福は加賀藩主前田綱紀の娘を正室としてむかえた。それより以前に加賀藩主前田家により大規模な蔵書の調査および整理がおこなわれている。公福は僅か3歳にして父をうしなった為、霊元天皇をはじめ中院通躬・武者小路実陰に歌道を師事した。

明治時代以降

幕末期の当主は三条西季知で、いわゆる七卿落ちの一人として維新に際して勲功があり、また明治天皇の和歌師範としても有名である。三条西公允は水原県知事および新潟県知事として活躍した。三条西実義は御歌所に出仕する歌人でもあった。昭和の当主・三条西公正は、実践女子大学教授などを勤める一方、御家流香道宗家として日本香道協会会長もつとめ香道の復興・発展に尽力した。また聖霊女子短期大学の校歌作成者としても知られる。公正夫人は、香淳皇后の妹にあたる久邇宮家の信子女王である。公正のあとを継いだのが実謙であり、香道の発展に尽力した。実謙の弟、実栄は母方のおじの家である久邇侯爵家を継承している。現当主は公彦であり、香道を広める活動を積極的に行っている。

三条西家の文書は、学習院大学、東京大学、国立公文書館、国文学研究資料館、早稲田大学、カリフォルニア大学、天理大学、日本大学などの各研究機関に分散所有されている。

外部リンク

三条西家 - Wikipedia

関連項目

朝廷 公家 三条家 正親町三条家 大臣家 久邇宮

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