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八世野村万蔵

はっせいのむらまんぞう

八世野村万蔵は日本の狂言師、総合演出家。『長野オリンピック』の閉会式の演出を行ったことでも知られている。また、生前名乗っていた『五世野村万之丞』としても知られる。

概要・人生編集

1959年、七世野村万蔵(現在の野村萬)の長男として生まれる。


1963年に靭猿で初舞台を踏んだ。

初舞台と同年の1963年には学習院幼稚園に入園し、浩宮徳仁親王のご学友となる。ご学友として浩宮と行動を共にする事も多かったため、浩宮徳仁親王との破天荒エピソードも数多く残っている


狂言師の活動と並行して1990年にはライフワークである『楽劇大田楽』を担う、人材を育成する『楽劇わざおぎ塾』を設立する。さらに『楽劇大田楽』と並行し、『楽劇真伎楽』や『楽劇平和楽』の復活・再構成をする。


本業の狂言のほうでは1995年に父から家督を譲られ、野村万蔵家の8代目当主となる。当主就任と同時に五世野村万之丞を襲名した。


1998年には『長野オリンピック』の閉会式の演出を行い、好評を得る。


2000年には野村万蔵家のマネジメントを行う、『萬狂言』を設立した。さらに『楽劇大田楽』を広げるために『ACTJT』という大田楽の活動組織(NPO法人)を設立する。


また、2002年の大河ドラマ『利家とまつ』での田楽の考証・監修にも関わっていた。


そして、2003年6月に満を持して2005年1月に八世野村万蔵を襲名する事が公表された。


そして、2004年4月には政府が任命した北朝鮮との文化交流団の団長に就任し、父の萬と共に北朝鮮を訪問した。仕事ではあるものの、これが八世万蔵の人生ではじめて父との2人旅行となる。だが、この旅行は萬、八世万蔵父子の最後の2人旅行でもあった


北朝鮮から帰国した翌日に八世万蔵は倒れ、緊急入院する。その後、病気は神経内分泌ガンであることが分かる。


そして、2004年6月10日。満44歳で死去した。八世野村万蔵襲名を半年後に控えた中での死であった。なお、辞世の句は

万蔵に万感の思いで千秋楽であり志半ばで死なねばならない悔しさが滲むものとなった。また、息子に先立たれた父の萬は天の非情を恨むという言葉を残している。

また、2005年の大河ドラマ『義経』での田楽の考証・監修にも関わっていたため、義経の作中に出演することが決まっていたが、八世万蔵の早世によりその計画も頓挫した



なお、万蔵の名前に関しては八世万蔵の長男・太一郎がまだ中学生だった事もあり、弟の良介が九世として万蔵を襲名した(八世は五世万之丞に追贈)。


ただ、太一郎が2015年に万蔵家を出奔したため『万之丞』の名前は弟の良介の長男・虎之介が2017年に襲名した


なお、太一郎は八世亡き後も叔父の良介(九世万蔵)から跡取りとして厚遇されてた事もあり、太一郎の突然の出奔は狂言界の謎のひとつとして扱われる事がある

なお、長男の太一郎は病に倒れた八世万蔵からできれば狂言を続けてほしいという遺言を残され、狂言師の道を歩む覚悟を決めたという。


なお、『楽劇大田楽』は弟の九世万蔵や長男の太一郎に引き継がれたが、『楽劇真伎楽』や『楽劇平和楽』はその活動を引き継ぐ者がおらず、八世万蔵が夢見た世界は頓挫する形になった


また、生前彼が夢見た狂言協会設立の夢も陣頭指揮を執る八世万蔵を失ったため、頓挫した



関連項目編集

野村萬

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