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概要編集

江戸時代初期に江戸幕府第三代将軍・徳川家光が向井将監に命じて新造させた、軍船形式の御座船。阿武丸とも書かれ、天下丸という別名を持ち、豊臣秀吉が造らせた同名の軍船も存在する。


上口長は156尺5寸(47.4m)、竜骨長125尺(37.9m)、横幅53尺6寸(16.2m)、深さ11尺(3.3m)で、満載排水量は推定、約1700t。船体全体にフナクイムシ対策、炮録(焼夷弾のようなもの)等による攻撃を想定した防火用の厚さ約3mmの銅板で覆われていたとされる。


また建造を命じたのは秀忠で、その後、将軍職を襲った家光によって豪華絢爛な装飾が付けられたといわれている。


尚、維持費が大きかった為、奢侈引き締め政策の影響もあって、天和2年(1682年)に幕府の手によって解体されたという。


妖怪としての安宅丸編集

江戸時代最大級の巨大軍艦であった安宅丸は、小田原北条家の北条氏直(1562~1592年)が伊豆国(若しくは三州三浦)で建造させた戦艦で、江戸時代の地誌『江戸砂子標識』の記述によると、小田原城攻めで氏直を降伏させた豊臣秀吉が没収し秘蔵していたものを今度は大阪の陣で豊臣家を滅ぼした徳川家康が没収して伊豆下田に繋いでおいたとされ、寛永12年(1635年)に江戸に取り寄せられ、徳川家光に上覧されたといわれる。


この安宅丸には船霊が宿っており、それ故に志の低い者や罪人が乗船することを嫌っており、もしそのような者が甲板に足を踏み入れようものなら、たちまち唸り声をあげて乗船拒否を示したとされる。また故郷を恋して、「伊豆へ行こう、伊豆へ行こう。」と泣いたともいわれている。


安宅丸は江戸で8年間、日本一の御座船として家光に愛用された後、50年間、御船蔵にも入れられることなく、今柳川町松浦屋敷の堀辺に置かれていたが、ある大雨が降った日に、鉄の鎖を斬って東京湾を走り出し、「伊豆へ行こう、伊豆へ行こう。」と泣き騒いで逃走したが、三浦三崎で捕らえられる。しかしそのあとも泣き止まなかったので、大老の堀田正俊氏の断で廃船とされ、船供養を執り行い、本所安宅町という所に御船塚(おふなづか)をこしらえたといわれている。


ところが解体された船材を買った酒屋市兵衛という人物が、そんな大層な物とは知らずにこれを穴倉の蓋として使用していたところ、突然雇い入れていた女性に安宅丸の霊魂が取り憑き「我は安宅丸の亡魂である。何の遠慮もなく穴蔵の蓋などに使って、汚らわしい下賤な者たちに踏まれることは残念だ。」と、物凄い形相でわめき叫んだ。驚いた市兵衛は急いでこの蓋を取って丁重に扱うと、安宅丸の霊魂は離れていったという。


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