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黄小娥

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こうしょうが

黄小娥(こう しょうが)は、熊本県出身の易者である。昭和36年に『易入門』を出版。判然としないが、恐らくは故人。

概要

1913年(1923年説もある)1月12日生まれとされるが、判然としない。熊本県出身。

現時点で既に亡くなっている可能性が高いと思われる

(2018年9月時点、生年1913年として生きていれば105歳、1923年としても95歳になる)も、没年月日は不明である。

1961年(昭和36年)に『易入門』を光文社カッパブックスより出版し、1962年のベストセラー1位となる。

略歴

当初、本名や経歴は明らかにしておらず『易入門』の著者紹介では、

生まれ、育ち、国籍も不明で、親も夫も子もなく天涯孤独であるとされていた。

ただし、同書が売れたことによる正体暴きをされた結果、経歴は次のようなものと示された。

真の略歴

本名は川津久佳、熊本の小素封家の娘として生まれた。

幼い頃に母と死に別れ、継母に冷たくされて育ち、17歳の時に材木商のもとに嫁がされる。

一男一女をもうけたが、義理の妹との関係が悪く、子供を婚家に置いて出た。

その時に持って出た資金を元に小金貸しをしながら占いの勉強を始めた。

上京して易学校で10年学び、四谷駅前のアパートで易者として仕事を始め、

光文社カッパブックス編集部の依頼で、百円玉十円玉

筮竹算木の代わりにして占う『易入門』を書いた。

また、易入門出版当時、年齢は40~50歳と推測されていた。

上記の生年月日が本当のものならば当時48歳または38歳ということになり、推測はほぼ当たっている。

その後

1980年代半ば、四谷のアパートを引き払い熊本に帰郷したとされる。その後は、公には占い師としての活動はしていない。易入門は、1987年に光文社文庫で文庫化され、2004年サンマーク出版よりタイトルに著者の名を入れた新装版が出ており、そこには本人からの寄稿がある(仮にその寄稿が本当に本人のもので上記生年月日が正しいならば、91歳もしくは81歳には存命していたことになる)。

『易入門』についての批判

露木まさひろ著、「占い師!―ココロの時代の光と影」(社会思想社1993年12月発売)内では「氏がマスコミでスター扱いされたことに対し、易の大衆化・易の冒涜との批判が相次ぎ、業界、師匠(加藤大岳、田口二州)と対立し、業界から消える」という流れで、川津氏が表舞台から消えた様子を示している。

 しかし、個人ブログ「蒼流庵随想」での記事曰く、実際の状況は少し異なる模様。蒼流庵のご主人が調べた結果では、加藤大岳氏の門下ではなく紀藤元之介氏の門下であるとか。また川津氏個人が非難されたというよりも、氏を(何人も先輩の易者が数多くいたにもかかわらず)「日本一の易者」として紹介した光文社の宣伝の仕方のほうがより強く非難されていたようである。易入門での「変爻を求めず、卦を二回しか求めないやり方」(蒼流庵記事で二遍筮と紹介されている)も当時の易者たちは攻撃したらしいが、同じ易者の広瀬宏道氏は、普段自分を占う際にはこの二遍筮で行っていたという。

主な著書

『易入門 自分で自分の運命を開く法』光文社カッパ・ブックス 1961年 のち文庫

『黄小娥の易入門』サンマーク出版 2004年

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