概要
ナチスドイツが大西洋での商船破壊作戦用に建造した12,000海里もの長距離航行可能なIXC型(IXはローマ数字の九、日本語の読みとしては「きゅうしーがた」で可)の航洋型潜水艦(Uボート)。
ハンブルクのドイチェ・ヴェルフト社307番ヤードにて太平洋戦争勃発翌日の1941年12月8日に竣工。
1942年5月に水中からのロケット弾発射実験を行っている。これは当時のU-511艦長だった「フリードリッヒ・シュタインホフ」大尉が兄「エルンスト・シュタインホフ」博士と「ロケットによる水中からの対地攻撃」を考えだしたのが原因。U-511は甲板に陸軍のネーベルヴェルファー(多連装ロケットランチャー)を改造した30cmロケット弾が6つ収まったラックを装着したまま潜水し、潜行深度12mからこれを発射。結果、見事発射実験は成功した。
だが命中性能の問題や、この外付けランチャーの産み出す水中抵抗がUボートの操縦性や速度・航行距離に悪影響を及ぼすなどの問題も露呈し、計画は破棄されたという。
しかしこの「ロケットによる対水上・対地上攻撃可能な潜水艦」というコンセプトそのものはドイツ海軍上層部に支持され、戦後に米国とソ連で戦略原潜として実を結んだのであった。
その後は1942年7月から1943年3月までに3回の哨戒を実施。フランスのロリアン軍港を起点に遠くはカリブ海まで哨戒航海を行い、タンカー2隻を撃沈し、別のタンカー1隻を損傷させた。
(ちなみにこのロリアン軍港は同じフランスのブレスト軍港、ドイツ本国のキール軍港などと並び通商破壊作戦の重要な拠点であり、Uボート・ブンカーと呼ばれる防空施設に守られ一種の要塞のようになっていた。また、同地ロリアンのUボート・ブンカーは堅牢すぎて解体するのにかなりのお金がかかることがわかったために解体されておらず、今もその姿をGoogle Mapsなどで見ることができる。)
1943年5月、U-511は技術交換の一環とインド洋での日本海軍の通商破壊作戦の要請のため、通商破壊用の潜水艦のモデルとして日本帝国海軍に無償で供与された。
またこの日本への航海中に行き掛けの駄賃としてインド洋で商船狩りを実施し、アメリカ商船2隻を撃沈している。
1943年7月15日にマラッカ海峡のペナン港に寄港。ここで日本から派遣された回航員と乗員入れ替えを行い、「さつき1号」の仮称で一路呉へと向かった。その途上の7月29日にU-511は浮上航行中に、高雄発シンガポール行きの日本の輸送船団「ヒ03船団」と遭遇。明らかに日本の潜水艦とは異なる、見慣れない潜水艦を見つけ、どこかの輸送潜水艇よろしく、味方に敵と間違われ船団の先頭を行くタンカー「御蔵山丸」は発砲を開始。慌てたU-511は艦上で軍艦旗を大きく振って、御蔵山丸の誤解を解かせたのであった。その後臨検しにきた護衛の海防艦「択捉」に事情を説明して船団も納得。
1943年8月7日にU-511は呉軍港に到着。9月に入って艦籍が日本に移り、呂号第五百潜水艦に改称された。
関連タグ
U-511→表記揺れ