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概要編集

1835年生まれ、土佐国出身。幼い頃から文才に優れ、21歳で江戸に遊学。しかし父が酒の席で喧嘩をして投獄されたと聞くとすぐさま帰国、冤罪を訴えたものの自分まで投獄される羽目になってしまう。だがそこで同房の商人から算術や商法を学んだ事が、後に商業の道に進むきっかけとなった。


出獄後、故郷の村を追放された弥太郎は吉田東洋の開いていた少林塾に入塾。東洋が参政になるとこれに仕え藩吏として長崎へ派遣される。だがそこであろうことか公金を注ぎ込んで遊びほうけてしまい、半年後に帰国させられてしまう。その後は土佐勤王党の監視や脱藩士の探索などを行い、吉田東洋が暗殺されると犯人捜しを命じられ大阪へ派遣される。しかし届け出不備を咎められて帰国、その後長崎の一件もあって辞職する事となった。


慶応3年、少林塾時代に知遇を得ていた後藤象二郎に長崎にある藩の商務組織、土佐商会の主任と長崎留守居役に抜擢される。また、脱藩浪人の坂本龍馬が脱藩の罪を許され亀山社中が土佐藩外郭機関の海援隊となるとその経理役も担当した。


明治元年に土佐商会が閉鎖されると、今度は大阪商会(明治2年に九十九商会へと改称)へと移り、海運業に乗り出す。明治6年に廃藩置県が行われると、土佐藩の負債を肩代わりする代わりに船を2隻譲り受けた。そこで弥太郎は九十九商会を三菱商会(後の郵便汽船三菱会社)と改称、その船を活用した海運企業とした。


その後、新政府が通貨統一をする為全国から藩札を買い上げるという情報を後藤象二郎から聞き、10万両で土佐藩の藩札を買い占め巨額の利益を得たり(要するに、インサイダー取引で大儲けしたという話)、台湾出兵や西南戦争の輸送を独占的に引き受ける等政府の仕事を積極的に受注するなどして三菱は大きく発展。しかし政商として急速に膨張する三菱は敵を多く作り、渋沢栄一増田孝(三井財閥)、大倉喜八郎(大倉財閥)らによって共同運輸会社が設立されると、2年にもわたる熾烈な競争を行う事となった(後に、共倒れを危惧した政府によって三菱商会と共同運輸会社は合併し、日本郵船となった)。


1885年、共同運輸との海運合戦の最中、51歳で死去。死後は弟の弥之助が三菱を引き継いだ。


pixivでは編集

主に大河ドラマ龍馬伝香川照之が演じた岩崎弥太郎が描かれる事が多い。

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