姓名:劉協(字は「伯和」) 別名:陳留王、愍帝(蜀からの諡号)
生没(181~234) 在位(189~220)
220年に曹操の死去に伴い、曹丕が献帝に禅譲を迫るが、献帝の皇后であり、曹丕の妹でもある曹節が伝国璽を握りしめて拒んだ。
最終的には、曹節が涙を流し伝国璽を投げ付け、ついに禅譲となる。ここに後漢王朝は滅亡する。
献帝と曹節は山陽県にて暮らし、献帝は234年に、曹節は260年に死去した。
禅譲時のできごと・死没者
献帝の禅譲時期は、初期の主要人物が相次いで死去してしまう。
三国の鼎立、そして劉備の死去後は、三国志の後半の始まりに当たるだろう。
219年 定軍山の戦いで劉備軍が勝利。夏侯淵戦死。
曹操と孫権が同盟。樊城の戦いで呂蒙らが関羽に勝利。
麦城にて関羽死去。呂蒙病死。
220年 曹操死去。献帝が禅譲し曹丕が魏の皇帝となる。
221年 劉備が蜀漢の皇帝となる。張飛死去。
222年 夷陵の戦いにて呉が蜀に勝利。馬良戦死。
孫権が魏から独立。(実質的な呉の建国) 蜀と呉が再同盟。
対呉戦中に張遼病死。
223年 曹仁死去。劉備死去。劉禅が蜀の第2代皇帝に即位。曹彰死去。賈詡死去。
後漢の滅亡期に始まる魏晋南北朝時代、そしてその後漢最後の皇帝である献帝。
彼の子孫の劉秋とその家族は、80年ほど後の永嘉の乱で匈奴の劉淵が興した漢(後の前趙)軍によって殺され、漢朝の血筋は絶えてしまう。
皮肉にも、同じ劉姓で同じ漢を国号としながらも、漢民族の元皇族が異民族の国によって滅ぼされ、この後、華北は様々な民族が、様々な国を建てる戦乱期(五胡十六国時代)に入る。
他民族に反発した漢民族が『冉魏』などを建てた事もあったが、すぐに滅ぼされ、再び漢民族が中国を支配するには、1000年ほど後の世である明の時代を待たなければならない。