中国史上、「献帝」と諡された皇帝は何人かいるが、日本において「献帝」といえば後漢末期の劉協を指す場合が多い。ここでは、劉協について述べる。
姓名:劉協(字は「伯和」) 別名:陳留王、愍帝(蜀からの諡号)
生没:181年~234年 在位:189年~220年
概要
董卓(西涼軍)によって擁立され、曹操の傀儡時期を経て、曹丕に禅譲し、曹丕・劉備・孫権が相次いで皇帝となったことで魏・呉・蜀が建国され、本格的な三国時代が始まる。
史書では、それなりに優秀であったとする記述もあるが、強大な曹操に逆らうことは難しく、傀儡として生涯を送ることとなる。
側近の趙彦が曹操を殺す計画を立てたが、たちまち曹操に殺された事件があった。献帝はたまりかねて曹操に「君が朕を補佐するに値すると思うなら、しっかり助けて欲しい。そうで無いなら、情けを掛けて捨て置いて(退位させて)欲しい」と愚痴ったところ、曹操は色を失い、それからは拝謁を避けるようになったという。
220年、曹操死後、跡を継いだ曹丕に対して帝位を禅譲し、禅譲後は山陽公に封じられた。
なお、曹丕に対して禅譲の後、益州にいた劉備の元には「帝が曹丕に殺害された」という一報が届く。この報を元に、劉備は献帝の葬儀を行い、「孝愍皇帝」と諡し、自らは「漢王朝を継ぐ」という名目で、蜀漢の皇帝となる。
ちなみに、この「孝愍皇帝」の「愍」の字義は「国に政が欠けており、長く動乱が続いていく」という意味である。一方の「献」は「博識で多方面に才能を持っているが、どの道も究められない」となっている。
家系
※数字は帝位順
12
何 霊 王
皇━┳━帝━┳━美
后 ┃ ┃ 人
┃ ┃
13 14
少 献
帝 帝
- 霊帝:献帝、少帝の父。諱は劉宏。強い権力を誇っていた十常侍の傀儡同然の立場にあった。在位21年わずか33歳で崩御。
- 王美人:献帝の母。何皇后に嫉妬され毒殺される。
- 何皇后:少帝の母。何進は異母兄にあたる。宦官派であり何進とは対立する。
- 少帝:献帝の異母兄。諱は劉辨(劉弁)。献帝擁立後、弘農王に封ぜられ、董卓配下の李儒らの手で何皇后とともに暗殺される。
後漢滅亡
220年に曹操の死去に伴い、曹丕が献帝に禅譲を迫るが、献帝の皇后であり、曹丕の妹でもある曹節が伝国璽を握りしめて拒んだ。最終的には、曹節が涙を流し伝国璽を投げ付け、ついに禅譲となる。ここに後漢王朝は滅亡する。
山陽公となった後も食邑は1万戸に及び(有力皇族でも1万戸持つケースは少ない)、皇帝時代の衣服や車馬、一人称が許されるなど、前皇帝として非常に厚遇されていた。
献帝と曹節は山陽県にて暮らし、献帝は234年に、曹節は260年に死去した。
禅譲時のできごと・死没者
献帝の禅譲時期は、三国志初期の主要人物が相次いで死去してしまう。
三国の鼎立、そして劉備の死去後は、三国志の後半の始まりに当たるだろう。
- 219年
- 220年
- 221年
- 222年
- 223年
子供達
- 男子
- 劉馮 200年、恐らく重体になってから南陽王に封じられるが、同年死去。
- 劉熙 212年、済陰王に封じられた。後漢の滅亡後、列侯に降封された。
- 劉懿 212年、山陽王に封じられた。以下同文。
- 劉邈 212年、済北王に封じられた。以下同文。
- 劉敦 212年、東海王に封じられた。以下同文。
- 他、早世した太子と、伏皇后の生んだ二人がいる。前者は山陽公を継いだ劉康の父。後者は母に連座して毒殺された。
- 女子
- 劉曼 母は曹節。魏の223年、長楽郡公主に封じられた。献帝の子女でただ一人項目が立っている。
- 他、少なくとも二人の女子がいて、二人は曹丕の皇帝即位後、嬪(側室の位の一つ)として差し出された。
- その他
- 董貴人の妊娠した胎児がいたが、母もろとも殺された。
- 人形劇三国志、三国志 Three kingdomsなど三国志演義をモチーフにした作品においては、山陽公に位を落とされた後、自分の代で漢王朝が滅びたことに責任を感じ、任地へ赴く途中で自害する最期を迎えることもある。
魏晋南北朝の始まりと終わり
後漢の滅亡期に始まる魏晋南北朝時代、そしてその後漢最後の皇帝である献帝。
献帝の死後、孫の劉康が山陽公を継いだ。劉康の父は不明だが、献帝より先に死去していた。
劉康は西晋でも山陽公に留まったが、4代目山陽公の劉秋(献帝の曾孫)とその家族は、後漢滅亡から87年後の永嘉の乱で匈奴の劉淵が興した漢(後の前趙)軍によって殺され、漢朝の血筋は絶えてしまう。
皮肉にも、同じ劉姓で同じ漢を国号としながらも、漢民族の元皇族が異民族の国によって滅ぼされ、この後、華北は様々な民族が、様々な国を建てる戦乱期(五胡十六国時代)に入る。
他民族に反発した漢民族が『冉魏』などを建てた事もあったが、すぐに滅ぼされ、再び漢民族が中国を支配するには、700年ほど後の世である宋の時代を待たなければならない。