経歴
戦前・戦中
大正11年()に、和歌山県海草郡亀川村(現:海南市)に、県議会議員の父と、教師の母の間に四男として生まれる。
中学校時代は剣道選手として活躍し、卒業後は民間の貿易会社『田島洋行』に就職し、中華民国にある漢口支店勤務となり、中国語を習得した。
彼は兄弟の多くがエリート軍人であり、長兄は東京帝国大学医学部の陸軍軍医学校卒の軍医将校(終戦時の最終階級は中佐)、次兄は陸軍経理学校卒の経理将校(最終階級は大尉)で、弟はのちに陸軍士官学校に入校し、航空部隊関係の兵科将校(最終階級は少尉)となっており、相当なエリートかつ高学歴の陸軍将校であった。
しかし彼は、この頃はまだ軍人の道を歩まず、旧制高等学校への進学もしていなかったため、兄弟の中では経歴・学歴面で浮いた存在であったという。
彼が大日本帝国陸軍に入隊したのは、昭和17年(1942年)12月であり、上海の商事会社で働いていた時に、兵士の徴募に応じて徴兵検査を受け、本籍のある和歌山歩兵第61連隊(当時61本隊は戦地に動員中で、その留守部隊)に二等兵として入営した。
戦後・帰国後
昭和19年(1944年)には、情報将校として大東亜戦争に従軍し、フィリピン・ルバング島にてゲリラ戦を展開、戦争終結を報されずにその後も継戦し、29年間ものあいだ潜伏を続けていた末に発見され帰還し、元上官によってようやく任を解かれた。
そのため最終階級は『予備陸軍少尉』となっている。
しかし、帰国の際に「天皇陛下万歳」を叫んだ事や、フィリピン政府の判断により、小野田氏への訴追は行われなかったが、現地軍との銃撃戦によって多数の軍人や住民が死傷した出来事、「本当に敗戦を知らなかったのか」という疑問の高まりから、一部のマスコミから疎まれ、「軍人精神の権化」「軍国主義の亡霊」などといったレッテル貼りや、虚偽報道によるバッシングなどが行われた。
また、当時の日本政府は、小野田氏に対して見舞金として100万円を贈呈したが、小野田氏は受け取りを拒否し、それでも見舞金を渡されたため、見舞金と多くの方々から寄せられた義援金は、全て靖国神社に寄付したことも、非難の的にされ、昭和天皇との会見も、万が一に陛下が自身に謝罪するようなことを避けるために断っていた。
小野田氏は、マスコミのヘリがゲリラ戦時の敵軍ヘリと重なって悩まされた時期もあったという。
上述したことが原因となり、戦前から大きく変貌した日本社会に馴染めなかった彼は、後に帰国後に結婚した妻の町枝婦人と共にに、次兄のいるブラジルに移住して牧場を経営。10年を経て経営に成功する。
その後は、凶悪な少年犯罪が多発する、現代の日本社会に心を痛め、「祖国のため健全な日本人を育成したい」という一心から、実業家となってサバイバル塾『小野田自然塾』を主宰し、自身の陸軍時代における密林での生活経験を元に、逞しい日本人を育成するため、野営などを行って子供たちに自然から多くを学ばせる独自の教育を行った。
それと同時に講演会なども積極的に行っており、2009年5月15日には、『小野田寛郎の日本への遺言』と題した講演を2時間に渡って行い、その後も精力的に講演活動を続け、高齢ながら日本とブラジルを往復して活動していた。
活動は晩年まで続け、2014年1月16日に肺炎のため東京都中央区の病院で死去した。享年91歳。
その、戦後日本人の多くが失ってしまった、古き良き日本人の精神性を体現した存在である彼の姿は、多くの現代日本人に日本と日本人のあり方を考えさせられることとなった。
逸話
保守系の活動家でもあり、『日本を守る国民会議』『日本会議』の代表委員などを歴任し、社団法人『日本緑十字社』の理事にも就任した。
慰安婦問題に関しては、日本の責任を否定し、2007年7月13日にアメリカ大使館に手渡された、アメリカ下院121号決議の全面撤回を求める、チャンネル桜主導の抗議書に夫婦そろって賛同した。
政府見解と異なる懸賞論文を投稿したとして更迭された、航空自衛隊の田母神俊雄元航空幕僚長を支持する『田母神論文と自衛官の名誉を考える会』の発起人でもあり、妻と共に名を連ねている。