ジョージ・ワシントン
じょーじわしんとん
生年没年 1732年2月22日~1799年12月14日
大統領任期(初代) 1789年4月30日~1797年3月4日
概要
アメリカ合衆国初代大統領で、アメリカ独立戦争時の軍人である。アメリカ合衆国独立に大きく寄与したとして「アメリカ合衆国建国の父」とも呼ばれる。
1732年、当時イギリス領だったバージニア植民地で農場経営者の子として産まれた。11歳の時に父親が死去してからは兄を親代わりとして育ち、父の遺した農園の一部を経営する傍ら測量を学び測量士となった。1751年、兄が結核にかかり地方で療養する事になるとワシントンもそれに同行した。しかし、療養先で天然痘にかかってしまい、完治こそしたものの、それが元で無精子症となり子供が作れない体になってしまったと言われている。翌年、兄が死去するとワシントンは父の農場全ての相続者となり、また兄が務めていたバージニア民兵組織の地区隊長職も引き継いだ。当時、北米ではフランス軍とイギリス軍の間で勢力争いが起きており、ワシントンもフランス側に対し近隣のオハイオでの開拓事業を中止するよう求める使者としてフランス軍の砦に向かったりした。
1754年、バージニア市民軍の大佐に指名され、知事からオハイオに居座るフランス軍の排除を命令された。これを受け、ワシントンはオハイオのフランス軍野営地を襲撃して壊滅させた。これが北米での七年戦争(フレンチ・インディアン戦争)の発端となる。襲撃後、報復を予測したワシントンは砦を作り反撃に備えたが、フランス軍には全く刃が立たず降伏する事になった。この際、フランス軍からの要求で降伏文書への調印を求められたのだが、ワシントンは降伏文書のフランス語がわからないため通訳を通して署名をした。しかし、この通訳が前記したフランス軍野営地襲撃で死亡した指揮官に対して『イギリス側が暗殺した』という記述をしていたにも関わらず見過ごしてしまい、これを調印したワシントンは後に批判を受けた。降伏後、バージニアに帰還したワシントンは別の部隊と共にオハイオ奪還作戦に参加し、激戦の末オハイオ全土をイギリス領にする事に成功し終戦を迎えた。終戦後、ワシントンはバージニア植民地議会の議員となり、農園主と政治家を兼務するバージニアの名士として大きな地位と尊敬を得た。また、この頃に後に初代ファーストレディとなるマーサと結婚している。
1769年、ワシントンは北米植民地に対するイギリス本土の重課税法制(タウンゼント諸法)に抗議するため、友人が主導する本土製品のボイコット運動に参加した。この運動は功を奏し、1年後にタウンゼント諸法の大部分は撤廃される事となった。しかし、その後もイギリス本土は北米植民地に過度な負担を強いるような法整備を続け植民地の不満は増す一方であった。そして1774年、重税に抗議した植民地の市民がイギリス本土から来た紅茶を海に投棄する事件(ボストン茶会事件)が発生したボストン港へのイギリス軍駐留や北米植民地に対するイギリス政府とイギリス軍の待遇・権力拡大を狙った5つの法律(耐え難き諸法)の成立を機にワシントンは会議を招集し、北米イギリス植民地13州の代表者による議会設置を決定した。これにより開設されたのが後のアメリカ合衆国議会の原型となる大陸会議である。この会議には、ワシントン自身もバージニア植民地代表(代議員)の1人として参加しており、耐え難き諸法の撤廃を求め植民地が結束しイギリス本土製品のボイコットと本土に対する輸出禁止措置を行い、本土の貿易にダメージを与えた。ただ、この時点でワシントン自身は会議を本土への対抗力を上げる存在程度にしか考えておらず、国として植民地を独立させる程の考えは無かったようである。
しかし、転機は突然訪れた。最初の大陸会議とほぼ同時期の頃、ボストンで駐留していたイギリス軍と現地の植民地住民が一触即発の状態となっているのを受け、駐留イギリス軍司令官トマス・ゲイジが植民地側の弱体化を狙い、軍を使って植民地の民兵組織の弾薬庫を襲撃し火薬を押収する作戦を周辺地域で決行していた。この作戦は初めの方こそ上手く行っていたが、徐々に植民地側に押収作戦の情報が漏れるようになり、1775年4月のレキシントンとコンコードへの押収作戦ではついに先回りした民兵と武力衝突(レキシントン・コンコードの戦い)を起こした。これをきっかけに植民地とイギリス本土はアメリカ独立戦争に突入する事になる。植民地側はレキシントン・コンコードの戦い後に招集された二度目の大陸会議で各植民地の軍隊を統合した大陸軍(アメリカ合衆国軍の原型)の創設を決定し、ワシントンはその総司令官に任命された。
独立戦争初期の戦況は、当時最強を誇ったイギリス海軍を持つイギリス本土が海戦を優位に進める一方、地上戦は遠方の北米大陸での戦闘の為か本土側が本領を発揮できず、独立派と拮抗気味であった。しかし、後々独立派に当時イギリス本国と敵対関係にあったフランスやスペインなどが味方として参戦すると形勢は独立派に傾き、1781年にバージニア州ヨークタウンで行われた包囲作戦によるイギリス軍降伏をもって独立戦争は終結した。
1783年、パリ条約でイギリス本土より東部13植民地の独立(アメリカ合衆国)が承認されると、ワシントンは大陸軍総司令官の辞任を申し出た。これは、すでに政治家として一定の地位を持つワシントンが、軍の権力を持つ事で権力の過度な集中が発生する事を懸念したからである。総司令官辞任後、ワシントンは憲法制定議会の議長に選出されるが、本人は積極的に憲法作りに関与する事は無かった。そのため、ワシントンはその国民人気で憲法案に信頼を持たせるための名義上の参加であったと言われている。事実、ここで完成した憲法案は各植民地議会から大きな信任を得る事に成功している。
1789年、最初のアメリカ合衆国大統領選挙で初代大統領に選出された。以後、2期8年を務める事になる。この際、選挙人団(特定の候補に投票する事を約束した集団)による投票でワシントンは支持率100%という驚異的支持を得ており、これは歴代大統領で唯一ワシントンのみが達成した偉業である。ただ、本人は大統領就任にそこまで積極的ではなく、就任演説でも「自分は大統領の器ではない」などと言う程であった。ワシントン政権は副大統領にジョン・アダムズ、国務長官にトーマス・ジェファーソンなど後に大統領など要職を務める大物が多数在籍していた。また、今のアメリカとは違って政党所属者が1人もいない政権だった。これは、ワシントンが政党政治を「対立の原因になる」として嫌い、「同じ共和主義を信奉する者同士なのだから政党を作るまでもない」として政党を作らなかったからである。政権の具体的な政策としては、ウイスキーへの税導入とジェイ条約締結がある。まずウイスキー税だが、これは独立戦争時の借金返済や社会規律の維持などを目的にウイスキーへ税金を課す政策である。しかし、これにより一部の州でウイスキー反乱と呼ばれる暴動が起きる事態となり、ワシントンは自ら国軍や州兵を率いて暴動の鎮静を行った。結果、暴動は鎮圧されたがウイスキー税への理解は深まる事は無く、1809年に同税が廃止されるまで殆どの州で守られる事はなかったという。次にジェイ条約だが、これは独立戦争以来冷えきっていたイギリスとの関係改善を目指した条約で、『イギリスへのミシシッピ川の開放』『イギリスの敵国(主にフランス)私掠船(敵対国の船に対する略奪を許可された船)に対する補給の禁止』『独立戦争以前のアメリカからイギリスに対する借金の返済』の3項目を基軸とするものだった。これにより、イギリスとの関係は飛躍的に改善したが、独立戦争時より友好関係にあったフランスへの裏切りと受け取れる条約であったため、国内では賛否両論だった。これら諸政策を実行した後の1797年、ワシントンは3期目の大統領選出馬を辞退し政界も引退した。引退の際、ワシントンは国民に向け『政党政治の否定』『外国への不干渉』などを求める挨拶文を残している。この大統領3期目の拒否や挨拶文の内容の一部は、後にアメリカの政治制度や外交姿勢を形作る上での手本となっている。
政界引退後は農園経営に専念していたワシントンだったが、引退してわずか1年後の1798年にフランス革命戦争が勃発すると、陸軍中将として軍に復帰した。大統領経験者がアメリカ軍に籍を持つ事は極めて稀であり、ワシントン以外だと第二次世界大戦直後の大統領アイゼンハワーしか例がない。これは、フランスとの戦闘に巻き込まれそうになったアメリカ政府が、英雄的存在であるワシントンをフランスへの威嚇材料に使おうとしたからだと言われている。しかし、復帰からわずか1年後の1799年12月、ワシントンは急性喉頭炎と肺炎でこの世を去った。リタイア世代にも関わらず冬の悪天候の中を馬で巡回し、家に戻っても着替えずにずぶ濡れのまま過ごしたため、体調が急速に悪化したからだと言われている。
アメリカ合衆国建国に大きく尽力したその功績は現在でも高く評価され、紙幣、ラシュモア山の彫刻、空母など、彼を讃えるものはアメリカの至る所で見受けられる。また、アメリカ合衆国建国200年の節目だった1976年には、議会からアメリカ合衆国陸軍大元帥の地位を贈られ、当時のフォード大統領からは「永久にアメリカ軍序列最高位の地位とする」という規定が発令された。
思想・信条
軍司令官と政治家の兼業や大統領としての長期政権の機会を自ら拒否するなど権力の集中や固定化を嫌っていた。また、比較的質素な生活を望んでいたようで、すでに農園経営などで一定の富を持っている事を理由に大統領就任時に給与の受け取りを拒否した事もあった(給与事態は後に議会の強い要請で受け取った)。これは、紀元前6世紀頃の共和制ローマ時代に活躍した伝説的名政治家であるキンキナトゥスを模範としていたからだと言われている。
初期の軍人時代から一貫してインディアンに対して厳しい姿勢を採っており、インディアンの絶滅政策を主導していた。その徹底ぶりから、生き残ったインディアン達は「ワシントン」の名を聞くだけで恐怖する程だったという。
フリーメイソンリーに入会しており、メソニック内の活動も積極的に行っていた。また、アメリカの各州に一つづつ存在するメソニックのロッジを統一しようと奔走したが、各大ロッジの棟梁に大反対され、失敗に終わっている。
架空の人物!?
歴史学者の倉山満氏によると、当時のアメリカは宗主国のイギリスに謀反した、もともと植民地だった13の州が寄せ集まって出来た、現在のEU(欧州連合)のような連合体の状態であり、個々の州が一つの国家としての扱いだった。
そのため一つの『国家』とは言い難く、歴史研究家の間ではしばしば『アメリカ連邦』と訳されることがあるという。
同氏によれば、ジョージ・ワシントンは紛れもなく実在人物であるが、「アメリカ連合国初代大統領ジョージ・ワシントン」は架空の人物であるとしており、ここで言われる「アメリカ連合国初代大統領」がポイントである。
上述したようにアメリカはまだ一つの国家とは言い難い状態であり、ジョージ・ワシントンは元々イギリスと対峙した際の13植民地軍の最高司令官であり、独立後にそのままいわゆる大統領の地位に就任した。
しかし13植民地はまだ一つの国家とは言えないような状態であったため、彼はいくつもの国家(州)からなる連合体の議長であり、大統領ではないとしている。
倉山氏によれば、アメリカが現在の一つの国家としての形となったのは、エイブラハム・リンカーンの代からであるという。