大関
おおぜき
大相撲の「大関」
最高位「横綱」に継ぐ地位であり、関脇以下の地位と比べ待遇などが格段に変わる事から、特別な地位とされる。今でこそ横綱が最高位であるが、江戸時代までは大関こそ紛れもなく最高位であった。大相撲の三役とは「大関・関脇・小結」を指す。
昇進には関脇・小結の直近3場所の成績が33勝以上であることが条件といわれるが、明文化された規定はなく、マスメディアもあくまでこのラインに言及するときは「昇進の目安」と記述することが多い。時の情勢や当該力士の地力、ならびに、将来性への期待なども昇進させるかの判断に当たっては考慮されるので、このラインは上下し得る(※)。
昇進は協会の番付編成会議、および理事会で決められ、横綱審議委員会などの判断は受けない。横綱になるためには、大関で2場所連続優勝、もしくは準優勝(最近は2場所連続優勝しないと昇進できないとされる)しなければならず、極めて重要な地位である。
また、大関では場所で負け越してもすぐには降格にはならず、2場所連続で負け越して初めて降格となる(ちなみに横綱は負け越しても降格はないが、進退を問われる)。関脇に降下した場所で、現在の制度では10勝以上(本場所の日数の3分の2以上で勝利)すれば大関に復帰する事ができる。
この条件が定着したのは1969年の事で、1958年から69年までは、3場所連続負け越しで陥落となり、特例復帰制度は設けられていなかった。この時期には当時大関だった北の富士(のち横綱)が2場所連続で負け越したが、角番で10勝を挙げ、大関に踏みとどまった。北の富士の場合は、前述のとおり、現在の制度でも大関への特例復帰が可能な成績である。
大関特例復帰を果たした力士は、三重ノ海(のち横綱、武蔵川理事長)、貴ノ浪、武双山、栃東(2回)と極めて少ない。特例制度によらずに大関復帰(再昇進)をしたのは、復帰直前の3場所で36勝(うち優勝1回)した魁傑(のち放駒理事長)が唯一のケースである。
一方で、長い間大関に在籍し続ける事は、いつまでたっても横綱になれない事であり、どちらかと言えば不名誉とされ、9勝(6敗)しかできない「クンロク大関」と揶揄される事がある。ちなみに問題児横綱で知られた朝青龍は3場所で横綱になっており、これは双葉山などの2場所に次ぐスピード記録(現横綱・白鵬は大関在位7場所で横綱昇進)。
※極端なケースを挙げると、北の富士が1966年7月場所後に大関昇進を果たした際には、直前の3場所の勝ち星の合計が28であった。北の富士自身もこの大関昇進が想定外であったという。
大関の勝率
大関止まりの力士に限定した場合、1場所15日制が施行された1949年5月場所以降、最も高い勝率を残した把瑠都や琴風(現・尾車親方)でさえ、その在位中の勝率は65.8%(1場所平均9.87勝)にとどまる。大関止まり力士に限定した場合の在位中勝率上位10傑に入る2代目栃東は62.3%(9.345勝)、魁皇は61.5%(9.225勝)となり、「クンロク」の印象論と実際の成績にはギャップがあるのも事実である。勝率だけで全てを語るのは妥当ではないが、やや同情的な見方をするなら、世間の要求水準が高すぎると言えるだろう。
注:把瑠都の大関在位中の勝率は65.84%(9.876勝/場所)、琴風は65.83%(9.874勝/場所)であり、厳密に言えば把瑠都が僅かに上回る。
大関の定員について
上限は決まっていないが、概ね5人までという暗黙の了解みたいなのが存在しており、後述のように昇進の目安とされる「小結・関脇で33勝以上」のラインを超えながら、6大関の前例がないとして(再)昇進を見送られたケースが存在する。しかし、2012年5月場所で初めて6人大関となった。この状態は同年9月場所で日馬富士が連続優勝し横綱に昇進したので、僅か3場所で解消された。
ただし、横綱以外の他の三役と同様、東西に1名ずつは置かなければならないことにはなっているため、大関が1名以下の場合、横綱が在位していれば、番付記入上の措置として東西の正横綱(大関が1名いれば西の正横綱のみ)が横綱大関として大関を兼ねることになる。この場合、番付表以外では当然ながら横綱として扱われる。
横綱も不在で大関も1名以下となれば、関脇以下から繰り上げて昇進させると思われるが、そのような例は近年ない。
引退後
日本国籍を持つ最高位大関の力士の場合は、1997年5月1日以降、年寄名跡を持っていなくても3年は現役時の四股名のまま、親方として相撲協会に残る事が出来る。ただし、2014年3月時点で、この特権を利用したのは、玉ノ井部屋継承を予定していた2代目栃東(2009年9月3日、玉ノ井襲名とともに部屋継承)と、日本国籍取得直後で年寄名跡を取得していなかった琴欧洲(2015年2月12日、年寄・鳴戸を襲名)のみである。また、引退後1年を経過すれば、師匠の了承の下、部屋の新設が許可される(3年間の期限付き現役名年寄を除く)。
現役力士(2017年春場所時点)
現役大関
大関から陥落
現役の元大関力士
白鵬(第238代)、日馬富士(第240代)、鶴竜(第244代)、稀勢の里(第243代)も大関だった事はあるが、ここでは除外
主な引退した元大関力士
※横綱に昇進した力士は除く。
- 第241代 把瑠都 2場所連続の途中休場による負け越しで、2013年1月場所で関脇に陥落。同年5月場所まで関脇の地位にあったが、古傷を悪化させて休場した。これが致命傷となり7月場所を全休、十両に下がった2013年9月場所直前に現役を引退した。幕内最高優勝1回
- 第239代 琴光喜 入幕から31歳での大関昇進まで44場所を要した苦労人だったが、2010年の大相撲野球賭博問題で解雇された。幕内最高優勝1回
- 第237代 琴欧洲 長身、懐の深さを生かした四つ相撲で一気に番付を駆け上がった。ブログが可愛いと定評がある。8年間47場所(2011年3月場所は中止)の在位は現在歴代4位。関脇に陥落した2014年1月場所こそ勝ち越したが、同年3月場所は負け越した上で11日目より休場し、翌3月20日に現役を引退した。幕内最高優勝1回。結果として引退直前となった2014年1月に日本国籍を取得した。現・鳴戸親方。
- 第235代 栃東(二代目) 師匠でもある父(初代栃東)との約束から高校横綱を経て入門。父親譲りの技巧相撲で大関に昇進した。関脇に2度陥落するも、特例復帰の制度で大関に返り咲いた。また、元横綱朝青龍が「最も苦手な相手」と語っていた力士でもある。幕内最高優勝3回。現・玉ノ井親方
- 第234代 魁皇 左四つ、右上手を絶対の形とする。地元の福岡県で開催される九州場所では絶大な声援を受けていたが、九州場所での優勝は果たせなかった。通算勝ち星最多の1047勝(700敗)、大関在位場所数歴代1位タイ(65場所)。幕内最高優勝回数は、最高位が大関以下の力士としては最多の5回。 現・浅香山親方
- 第233代 雅山 陥落後2006年に小結、関脇の3場所で34勝を挙げ復帰するかと思われたが、当時は5大関で6大関は例が無いとして見送られた。陥落後、関脇以下の地位を68場所務めた。 現・二子山親方
- 第232代 武双山 幕内最高優勝1回。現・藤島親方
- 第231代 出島 幕内最高優勝1回。現・大鳴戸親方
- 第230代 千代大海 入門前は不良少年のツッパリだったが、力士としては強烈な突っ張り、突き押し相撲で上位に長く君臨した。大関在位場所数歴代1位タイ。幕内最高優勝3回。現・九重親方
- 第228代 貴ノ浪 2m(本人談)の長身の持ち主で、深い懐と強靱な足腰を生かした相撲で沸かせた。また、土俵下で控えに入っていた時に物言いをつけた数少ない力士(ちなみに現役力士では白鵬も物言いをつけたことがある)でもある。幕内最高優勝2回。引退後は年寄・音羽山として貴乃花部屋で後進の指導に当たり、2015年2月には審判委員に就任したが、同年6月20日に急性心不全のため43歳の若さで死去した。
- 第224代 霧島 「角界のアラン・ドロン」と称される甘いマスクの持ち主として知られる。幕内最高優勝1回。1991年に年間最多勝を獲得したが、大関どまりの力士で年間最多勝を獲得したのは、霧島と若嶋津のみである。引退直前は当時の現役最年長力士でもあった。現・陸奥(みちのく)親方。
- 第222代 小錦 初の外国人大関力士。新入幕の頃は「黒船来航」などと恐れられたが、後に人気者となった。幕内最高優勝3回。現在はタレントとして活動中。
- 第218代 北天佑 幕内最高優勝2回。引退後、年寄二十山(はたちやま)を襲名したが、癌のため2006年に45歳で死去。
- 第217代 朝潮 「朝潮(汐)太郎」を名乗った力士としては4代目になる。近年は朝青龍の師匠として、弟子が問題や不祥事を起こした時、師匠としての資質が問われる事が多かった。幕内最高優勝1回。現・高砂親方。
- 第216代 若嶋津 体重が増えないことに悩まされたが、全勝優勝を成し遂げ横綱も期待されていた。「南海の黒豹」のあだ名を持つ人気力士で、『キャプテン翼』の登場人物、若島津健の名は彼に由来するという。妻は高田みづえ。幕内最高優勝2回。1984年に年間最多勝を獲得した。現・二所ノ関親方。
- 第214代 琴風 関脇まで昇進した後、一度幕下まで陥落し、そこから大関まで登り詰めた。上述の通り、大関止まりの力士としては最高水準の勝率を残している。幕内最高優勝2回。現・尾車親方