概要
フランス出身の生物学者。1823年12月21日生まれ、1915年10月11日没。享年91歳。座右の銘は「さあ働こう(Laboremus!)」。
南フランスの貧乏な家庭で生を受け、幼少期は虫取りと詩を読むことが大好きで、自然に多大なる興味を持っていた好奇心の強い子供だった。猛勉強の末に(運よく)師範学校に首席で合格し小学校の教師として勤務。やがて2歳年上の同僚と結婚するが、ある日知り合った教授の一言から博物学に興味を抱き、コルシカ島の大学に進学する。
卒業後はアヴィニョンで博物館の館長に就任し、大学教授になるために恩師を尋ねた。
ファーブル「というわけで教授になりたいのですが」
恩師「いや、キミじゃ無理だ。諦めろ」
ファーブル「そんなこと言わないで下さいよ! 私もっと頑張りますから!!」
恩師「いくら努力してもムリなの。ある程度財産がなきゃ大学教授にゃなれないよ」
ファーブル「金持ちじゃなきゃ受けられないんですか!!」
恩師「うん、だって給料が安すぎるんで絶対飯の種にはならないし」
ファーブル「(□)。。」
といわけで、ファーブルはセイヨウアカネから塗料を作る研究を続け、ついに特許を出願。これで後述するレジオン・ド・ヌール勲章を授与し(「受け取らなかったら憲兵を嗾けて逮捕させる」と脅されて半ば拉致される形で受賞したため、滅茶苦茶驚いたらしい)、財を成した…のだが、翌年にドイツでその塗料をいくらでも合成できる技術が確立し、たちまち困窮生活に戻る羽目になった。
かくして教職を追われたファーブルは家族を連れてオランジェに引っ越し、当時は全くメジャーな学問ではなかった昆虫に関する文筆を行い、1878年に「昆虫記」第1巻を刊行。学術論文ではなく平易な一般向けの「読み物」として記された本書は最初の売り上げこそ振るわなかったものの、次第に人気を博す結果となった。
フランス最高権威であるレジオン・ド・ヌール勲章を生涯で二度受けているが、それを自慢することは全く無かった。
ちなみに最初の妻との間に出来た子は7人いたが、最初の一姫二太郎は病で幼くして亡くし、次男のジュール・ファーブルも『昆虫記』1巻刊行直後に肺炎で先立たれ、更に再婚した超若い妻(三女より年下)にも死に別れ、晩年には10人の子供たちの殆どが先に逝っていた(孫はいっぱいいた)ほど、家族との別れを多く経験した事でも有名。彼の独特の死生観は、そうした辛い別れと新しい出会いにより生まれたともいえる。
同時代の学者チャールズ・ダーウィンとは親交があったが、彼の提唱する進化論には否定的であった。
余談
- 『トリビアの泉』にて、「庭の鳥がうるさかったので鉄砲で撃ち殺した」という過激なエピソードが紹介されたことがある。ちなみに、本来人間は虫の声を雑音としか認識できず、日本人とポリネシア人しか「音色」を判別できないそうだが、ファーブルは虫の声を「音楽」であると高く評価していた。
- 昆虫愛にかけては右に出ないファーブルであるが、捕殺に関しては(生態系への過干渉を除き)苦言を呈したことはない。なんとセミやカミキリムシを焼いて食ったことがある。
- 日本(及び韓国・中国など東アジア)ではかなり知名度の高いファーブルであるが、フランスではあまり知られていない。せいぜい「虫のオッサン」くらいの認識である。日本で言うと「二宮忠八について語れ」位のレベルである。