概要
生没年1538~1618
龍造寺家臣であり主君龍造寺隆信の義弟。戦国時代後期の実質的な大名であり、後の肥前藩の基礎を作り上げた名将。彼の子孫で、藩政改革で先進的な軍事技術を導入(有名な兵器はアームストロング砲)したことで有名な鍋島直正がいる。
生い立ち
1538年(天文7年)に佐嘉郡土着の豪族鍋島清房の次男として誕生。清房の主君龍造寺家兼の命令で一時千葉家に養子として預けられる。しかし1545年に家兼の一族ほとんどが小弐氏によって殺害されたことで実家に帰された。
家兼死後、曾孫の隆信が後を継ぎ、彼の生母である慶誾尼(けいぎんに)が清房の継室になったことで隆信と直茂との間に義兄弟の関係が出来た。そのこともあり、隆信から絶大な信頼を受け、そして直茂の活躍もあってか、1559年(永禄2年)に小弐氏を滅ぼした。
1569年(永禄15年)に大友軍が肥前に侵攻してくると、隆信に篭城を進言し、同時に毛利家に領地の挟撃を要請した。翌年の1570年(元亀元年)の今山の戦いでは、家中が篭城に傾く中、夜襲を進言し、自ら部隊を率いて成功を収め、大友軍は潰走した。この大勝を記念して、鍋島家の家紋を大友家の杏葉へと改めた。
1581年(天正9年)に隆信と謀って柳川城主蒲池鎮漣を殺害し、その一族を虐殺した。その後隆信の命令で柳川城主に任命された。直茂を信頼して筑後の領国経営を委任したが、同時に直茂を疎んじて転封したとも言える。1584年(天正12年)に沖田畷の戦いで隆信が討ち死し、辛くも本国へ帰還した。島津兵士が隆信の首を持参してきても受け取りを断固拒否したという。帰還した後は嫡男の政家を補佐した。その後島津に対して恭順の姿勢を示したため、取り潰されること無く島津家中でもよりよい地位で安堵された。
秀吉の九州征伐が始まるとかねてより秀吉とつながりを持っていた直茂はいち早く秀吉に鞍替えし、九州征伐の先導役を務めた。その甲斐あって秀吉から直茂、子の勝茂らに龍造寺氏とは別の所領を受け取っている。朝鮮出兵では龍造寺家臣団を率いて奮戦した。またそこから捕らえた朝鮮の陶工らに陶磁器を作らせ、特産品を産んだ。現在の有田焼の始まりである。(なお、これが日本における磁器の発祥である)。
秀吉死後は家康に恭順の意を示したが息子の勝茂が[伏見城]の戦いで西軍に属するという失態を犯したため立場が危うくなった。そこで早急に謝罪の手紙を送り、西軍の立花宗茂の居城柳川城を降伏開城させたことで所領を安堵された。また、九州の諸大名と連携して島津を攻めようと計画していたが、関ヶ原の戦いが1日で終わったため結局無しになった。一連の直茂の活躍もあり、肥前佐嘉35万7000石で安堵された。
龍造寺政家が病死すると、その子の龍造寺高房は幕府に対して佐賀藩における龍造寺氏の実権の回復をはたらきかけた。しかし、幕府は直茂・勝茂父子の龍造寺氏から禅譲を認める姿勢をとり、隆信の弟・龍造寺信周や龍造寺長信らも鍋島氏への禅譲を積極的に支持した。このため、龍造寺高房は直茂を恨んで憤死した。
直茂は子息に相次いで支藩を立藩させるなどしている。ただ、直茂は龍造寺氏・家中への遠慮があったためか、藩主の座に就くことはなく、初代藩主は勝茂となった。そのため、直茂は藩祖と称される。
人物評
秀吉に「知恵と大器はあるが大気がない」と評されている。大気とは野望という意味であり、意訳すれば「強いんだけど自重気味」ということ。しかし、関ヶ原では西軍に付きつつも息子を東軍に入れようとする(結局は失敗)、東軍に兵糧を売るなどしたという。見事な狸親爺っぷりである。
隆信とセットで「龍造寺の仁王門」といわれるくらい仲が良かったが、酒色に溺れていく隆信を諫言したため、次第に仲が悪くなった。
太閤時代、天下の三陪臣として小早川隆景、直江兼続と並んで評された。
戦国無双
武器:薙刀(2) 槍(3以降) 声:江川央生(2Emp) 山田真一(3Emp) 金本涼輔(4)
「おのれ島津…今は勝ちを誇るがよい!だが、この俺が大友家を、そして天下人・秀吉を動かしてきっと貴様らを滅ぼし、領地を取り戻してやる!」(3Empries:龍造寺滅亡より)
「い、要らぬ! なにやら不吉な予感がするわ!」(chronicle:柳川攻防戦)
「味方が中央湿地帯に密集していませんか…。殿、これは危険です…!」(4:沖田畷の戦い)
「殿、お待ちを!戦線が膠着している今、本陣をみだりに動かすなど危険です」(同上)
「天下に轟く智勇、味わってみるがいい!」(4Empriesにおける特殊台詞)
概要
モブとして2から登場しているが、大きく目立ったのは3から。
3Empriesでは立花道雪から送られてきた酒を飲もうとする隆信に対して、毒が入っているのでは無いかと疑っていた。(ただし当の隆信本人は道雪が毒を盛るような人物では無いと反論した)
その後、沖田畷の戦いで主君・隆信が戦死すると上記の台詞の通り島津に対して大友、豊臣を動かしてまでも滅ぼそうとした。この時のみ、一人自称が「俺」となっている。
chronicleでは化け猫騒動の逸話を反映してか、義弘が猫を進呈しようとした際に不吉な予感があると言って反対した。4では固有武将として登場。味方が中央へ進軍した際に島津の策を見抜くが、隆信からは臆病者や空気の読めぬ男と言われている。
4Empriesでは前作に無かった特殊台詞を引っ提げて登場した。