重要
藤原忠通の長男の近衛基実を家祖とする。その子の基通が京都近衛の北、室町の東の邸宅を「近衛殿」と称したことが家名の由来。家紋は近衛牡丹。江戸時代後期には家領2862石を受ける[4]。菩提寺は京都の大徳寺。
鎌倉時代中期には近衛家実の四男兼平により鷹司家が立てられた。南北朝時代の一時期には両朝に分裂していた。戦国時代には尚通など碩学政家や書家を輩出、近衛前久は三職推任問題や豊臣氏と徳川氏の創称に関わるなど当時の公家としてはめざましく活躍した。前久の子近衛信尹は継嗣を欠いたため、江戸時代初頭に妹の前子が後陽成天皇との間に儲けた四之宮を養嗣子に迎え近衛信尋とした。よって以後の近衛家のことを皇別摂家ともいう。
皇別摂家であるためか、五摂家の中でも特別扱いされ、近衛家だけは元服の際に名前を宸翰で賜るのが慣例だった。(内々に欲しい名前を伝えておくと、その通りの名前が天皇から与えられた。他の四家は「名をこれに定めてお差し支えございませぬか」と奏聞して認めてもらう形式だった。)
明治16年(1884年)の華族令の制定に伴い、篤麿が公爵に列した。昭和前期には当主近衛文麿が3度にわたって内閣総理大臣(第34代、第38代、第39代)を務めている。その弟秀麿も指揮者として著名である。
近衛家の人物
近衛信尋(後陽成天皇の皇子、後水尾天皇の同母弟、一条昭良の同母兄)
近衛忠輝(現当主、本性は細川氏、近衛文麿の外孫、兄に元内閣総理大臣細川護熙がいる。)