概要
この人物は昭和25年に生まれ、昭和60年より沖縄の政治家として活躍、地方議員、市長を経て沖縄県の知事、知事在任中の平成30年死去。
経歴
沖縄の政治家一家に生まれ、昭和50年法政大学卒業ののち、昭和60年、自由民主党に所属し那覇市議に当選、2期務めたのち、平成4年、沖縄県議に鞍替え、2期務めたのち、平成12年には那覇市長に出馬、おそらく革新派の新人を破り当選、3期務め、自民党の重鎮政治家として知られていたが、平成22年市長4期目の途中で( 後に辞任することになる一部の自民党員から出馬を要請されたことにより )自民党を離党しオール沖縄( 国政および沖縄県の左派の連携組織 )の支援を得て沖縄県知事に出馬、保守派の現職を下し当選したものの、1期目途中の平成30年膵癌( ガンの中でも予後の良くないことで知られる )により死去、享年67歳。
政治的スタンス
この人物に関しては自民党に在籍していた時期と知事時代では立ち位置が異なり、例えば基地問題に関しては自民党に所属していた市長時代までは「在日米軍基地の県内移転に熱心」であったが、いわゆる「オール沖縄」の推薦を得て知事となってからは「米軍基地の県内移設に反対」という立場をとり、言動の不一致がみられたりしたものの、政治的センスはあったようであり、このような行動をとった可能性としては「基地問題を拗らせたほうが沖縄にとってメリットがある」との考えだったのかもしれず、さらにはこの人物の支持者の行為等もこの人物の悪評とされている可能性もあるため、( 政治的スタンスはおいておいて政治的センスでは )知事よりもむしろ国会議員のほうが向いていたのかもしれない。
誹謗中傷等
この人物に関しては上記政治的スタンスもあり毀誉褒貶が甚だしく、誹謗中傷されることも多く、例えば「( 政府に反抗し続けたことから )琉球の国王を目指している」だの「( 親中的態度から )中国のスパイ」だの「ずれてる」だのさんざんないわれようだったらしく、これはおそらくは本土の人からそのようなことを言われ続けていた。
ピクシブ百科事典の項目
この項目もまた編集合戦が発生しており、いったん白紙化されている状態となっていた、履歴およびコメント欄参照。