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正親町三条家の編集履歴

2018-10-29 08:36:51 バージョン

正親町三条家

おおぎまちさんじょうけ

正親町三条家とは公家の家格の大臣家の一つ。明治になってから嵯峨に改姓した。

本性

藤原北家閑院流三条家庶流。左大臣三条実房の三男公氏を家祖とする。

重要

実房の長男公房が継承した嫡流三条家(転法輪三条家)と区別するために公氏流を正親町三条と呼ぶようになったものだが、この家名が定着するのは7代公豊の頃だと考えられている。「正親町」は邸宅が正親町東洞院に面していたことに由来する。なお家祖の公氏はこの正親町三条のほかにも、嵯峨(さが)や西郊(にしむら)を名乗ることもあった。このことを先例として、明治時代になると漢字5文字の長い家名が至便性に劣ることを痛感した28代実愛は、以後その家名を嵯峨家(さがけ)と改めている。墓所は二尊院(京都市右京区)。


5代公秀の孫に崇光天皇後光厳天皇、25代実同・26代公則の子孫に大正天皇がおり、現皇室に繋がる系譜である。

概説

家業は四箇の大事(節会・官奏・叙位・除目)・有職故実。近衛家の家礼。江戸時代の家禄は200石。内々。


当初は正二位権大納言を極位極官としていたが、5代公秀の時にその娘秀子(陽禄門院)光厳天皇の後宮に入り、崇光後光厳天皇の生母となったことから、内大臣に至る。その子実継、孫の公豊も内大臣に昇り、ここに大臣家の家格が定まった。なお、公秀の『公秀公記』とその父実躬の『実躬卿記』は鎌倉時代末から南北朝時代にかけての貴重な日記として有名。


公豊の弟公時は三条西家を興す。公豊の曾孫実雅は妹尹子が将軍足利義教の正室に入った縁から、その寵愛を受けて大いに権勢を振るうが、その子公躬は応仁の乱に際して将軍家の命に応じず、足利義視に加担したために解官された。したがって家督は実雅の弟公綱へ移り、その猶子実興がこれを継いだ。実興が文明13年(1481年)25歳で没した後、その父公躬が権大納言に任じられて嫡家に復するも、間もなく興福寺から放氏処分を蒙っている(続氏後、公治と改名)。その孫公兄は永正8年(1511年)将軍足利義尹が丹波へ退去した際、これに随行しなかったことで将軍の不興を買い、危うく一家断絶の瀬戸際に立った。庶流の三条西実隆が嫡家の危急を救うため、将軍の信頼厚い阿野季綱を介して赦免を乞うたことは『実隆公記』に見えるところである。なお、実望・実福は家領の駿河国稲葉郷(静岡県藤枝市)に下向したことがあり、実望はついに在国のまま没した。


近世には、実彦を除いて他家からの養子相続はなく、父子相承によって明治維新を迎えている。ただ、比較的若くして没した者が多いためか、大臣に昇ることはなかった。権大納言に達したのも実有・公統・公積・実愛の4代に留まる。中でも公積は竹内式部から垂加神道を学んでいたため、宝暦事件に連座して罷免・永蟄居の処分を蒙った。幕末期の実愛は議奏や国事御用掛を務め、尊王攘夷派から敵視されて一時失脚したが、明治新政府の樹立に功績を挙げて要職を歴任する。また、転法輪三条家の三条実美との区別のため、明治3年(1870年)12月家名を嵯峨(さが)へ改称。その子公勝は1884年(明治17年)伯爵を授けられたが、1888年(同21年)父実愛の勲功によって特に侯爵に陞爵された。30代実勝の長女浩は、満洲国皇帝で清朝最後の皇帝でもあった愛新覚羅溥儀の皇弟溥傑の妻となる。菩提所は松林院。

外部リンク

正親町三条家 - Wikipedia

関連項目

朝廷 公家 大臣家 三条家 嵯峨家

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