EF58
いーえふごじゅうはち
概要
1946年より新製が開始された旅客用直流電気機関車。
貨物用の兄弟機EF15とともにEF52以来の戦前型機関車の伝統的な構造をとる最後の機関車である。
第二次世界大戦後の買い出し客の需要により旅客用機関車が不足していたために急遽製造された。
全界磁定格出力は1,900kW。構造的には戦前製のEF56の強化型であり、戦中製のEF57の改良型に当たる。
最大の改良点は軸受けをコロ軸受けとし、長距離走行時の軸受け給油を不要とした点である。
なお、EF57とEF58では出力に差があるが、EF57が架線電圧1350Vで評価しているのに対し、EF58の時点では1500Vで評価されるようになったためである。
設計
電気系統
製造時期が戦後すぐであるため資材が不足しており、電気機器の多くは代用品でまかなわれた。
とりわけひどいのは、高速度遮断機と避雷器である。
高速度遮断機は架線からの異常電流をシャットアウトし、乗員や機器を守るものであるが、電気機関車では高電流が流れているため、瞬時に遮断しなければ乗員や機器類に危険が及ぶ。
しかし、高速度遮断機の製造には良質な資材と高度な技術が必要であったため、当時は「(当時の)アメリカの原爆の数くらいしか製造できない」と揶揄されるような状況であり、止むを得ず一般用の断流器で代用された。
そして避雷器は、架線や車体に雷が落ちた際、大電圧から乗員や機器を守るものであり、高速度遮断機と並んで重要な機器であるが、断流器で代役が務まると考えられたのか、搭載さえされなかった。
また、パンタグラフは戦時設計のEF13やモハ63に装備されたPS13を継続使用せざるをえなかった。
なお、受注したメーカーの資材・生産能力の都合で落成は番号順ではない。さらにメーカーごとの差異や製造時期による仕様変更、さらに後述する装備改造点も多く、両数のわりにバリエーションが多い。特に増備途中で車体高が短縮されるなど、外観上目立つ差異も少なくなかった。
軸受け
また、EF58では軸受けをコロ軸受けに改良したのは前述のとおりであるが、その実態は元来ほぼ軍需工業専門であったベアリング産業を、進駐軍による軍需産業解体から保護するために急遽設計に盛り込んだのが現実という、政治的色彩の強い決定であった。また制作精度および冶金技術の未熟さからこの時点では国際的水準から程遠い代物であり、頻繁に品質不良による発熱や軸受け焼きつきが起こるなどの問題も発生した。
使用状況
まず、1次車として30両が発注された。
前述のような状況で製造されたため、製造時から戦時型同様の水準でしかない粗悪な品質であり、故障が頻発した上、先に述べたような生命を守る重要機器を搭載していなかったこともあり、乗務員からの嫌われ者であった。絶縁関係が工業力の低下から非常に弱くなっており、ショートを起こし車体屋根に大穴をあけた事例すらある。
また、そうした資材不足の中でまともな整備が行えるはずもなく、壊れた機器の修繕もされずに運用され、1948年にはとうとう沼津機関区の機関士がEF58形への乗務を拒否するといった事態となった。それを受けて国鉄はようやくEF58全車に順次高速度遮断器や避雷器も取り付け、「まともな機関車」に改修する整備が行われた。これらの工事は1948~49年に行われ、側面窓の増設など車体側の改造も行っている。
また、車体が強度不足状態で落成してくる車輛も多く、現場レベルで補強工事をおこなったため、EF13転用後にはそれが顕著に目立つ車輛もあった。
またメーカーの生産状況の関係で、後述の製造凍結の時点で3両が未着工のままであり、これらは他メーカーの在庫によって補われている。
鋳鋼製先台車
日立が製造した旧EF58のうち、1947年製の5号機と28~30号機、その後に製造される新EF58の45号機に使用された「変形」先台車である。外観は通常の鋼板組み立て式とは大きく異なるが、内部構造はほとんど変わらないため型式(LT221)も同一である。
旧EF58の設計を主導した日立が独自に1~5号機用に5両分を製造したものの、何らかの事情で4号機まで通常品が使われたため、鋳鋼製のストック品がその後の増備車に転用されたものと推定されている。
増備中止とEF18への転用
その後、1947~48年になると折からの大幅な予算縮小もあり、多くの国鉄車両は製造の取りやめを余儀なくされた。
EF58形もその中に含まれ、1948年初頭には2次車20両(31~50号機)の発注を取りやめることとなった。
しかし、あるメーカーでは正式発注の前に予定分8両と見込み生産分1両の生産にかかっており、うち4両はほぼ完成に近い状態であった。そのため、3両分は他メーカーの未着工分の穴埋めに転用、1両(31号機)だけが国鉄に引き取られた。
同様に工程が進んでいた32~34号機の3両は、翌年のドッジ・ラインなどによる緊縮財政のあおりで国鉄に引き取られることなく、完成状態で放置されることになる。
その後これら3両は朝鮮戦争などの影響で貨物用機関車が不足したことで(歯車比を変更した貨物用機関車であるとされて)ようやく購入が許可され、1951年にEF18形として落成し、姉妹機であるEF15相当の機関車になった。(実際には軸重などの相違から別運用が組まれた)
蒸気暖房
1949年9月より、戦争によって中断していた特急列車が復活し、東京・大阪間に特急「へいわ」が運転開始され、当時東京・浜松間は電気機関車で運転された(当時、浜松・京都間は非電化であり、「へいわ」は浜松・大阪間は蒸気機関車で牽引された)が、当時最新鋭だったEF58形ではなく、EF57形が使用された。
これは、当時の客車の暖房には蒸気暖房が用いられており、機関車でおこした蒸気を送っていたのだが、EF58形には資材不足のため、蒸気発生装置の取り付けが省略されていたからである。
そのため、EF58形の牽引する列車で暖房を使用する場合は、暖房用の蒸気を作るボイラーを積んだ暖房車を連結する必要があった。
この暖房車は、石炭や水、ボイラーを搭載するため重かったこと、燃料や水を投入するのに機関士の資格を持つ者が必要だったことや、何より暖房車の数が足りなかったことから、暖房なしでの運転もあったという。
余談ではあるが、戦前の東海道本線の近郊列車では直流1500Vを使用した電気暖房が使用されており、旧EF58はその為の電気回路とジャンパ連結器を装備していた。
増備再開と設計変更
1951年にサンフランシスコ平和条約が締結され、翌年に占領から解放されることが確定すると、これまで凍結されていた幹線の電化工事が再開され、また必要となる旅客用電気機関車の製造も再開されることになった。
1948年以降製造が凍結されていたEF58も、再設計の上で増備が再開されることになる。
この増備車からは車体設計を大きく変更し、これまでの粗悪かつ低水準、事実上戦時型と同様であった設計から一転、高速度遮断機や蒸気発生装置(SG)を搭載するなどほとんど別形式の態をなしている。
これまでの車体にそのまま蒸気発生装置を搭載できなかったため、新規に車体を設計し、これまでのデッキ付きの車体から、当時大流行していた流線型]の正面2枚窓を持つ新しい車体となった。
なお、後述のように既存車の車体を乗せ換えることになったため、新製車の車番は35号機から始まることとなった。
増備が比較的長期に亘り、その間技術の向上などにより幾多の設計変更がなされたこと、さらにメーカーごとの特徴、後年の多岐にわたる各種の改造・更新により、晩年には「1両ごとに細部が異なる」と言われるほどのバリエーションがあった。(詳細は専門書を参照されたい)
新EF58登場と変則窓車
1952年3月、長大な流線型のを持つ新EF58(35号機)が登場、翌月までに5両が落成した。
新EF58の最初期車である35号機と36号機の2両は側面窓が7つあり、配置も不揃いなのが特徴である。(通常の箱型EF58の側面窓は5つで配置も等間隔である)
これは両機が前述の事情で仕掛品のまま放置状態であった旧車体を改造利用し、運転台およびボイラー機器周りの車体を延長増設したためである。
続いて製造された完全新造の37~39号機も両機同様、屋根上のモニターが小さく、前後のベンチレーター台座が共に大型になっている特徴がある。
EF13への車体転用
初期製造車も増備車に準じ車体載せ替え等の改造が行われた。このとき原型車体は、戦時設計車であり、極限まで粗悪であった車体が寿命を迎えつつあったEF13の状態改善用に転用され、最終的にEF13形の車体と内部機器が破棄された。(なお、車体側の機器についてはEF13への組み替えの際、内部機器も一緒につけたまま振り替えた)
偶然にもEF58とEF13の両数が31両で一致したことも振替転用の理由になったとされる。
改造は1953~1957年にかけて双方の検査入場に合わせて行われ、また元のメーカーと改造を担当したメーカーが異なるケースも多かったため、車番と改造の順番は一致していない。さらに「改装機」も、その間の新車で実施された設計変更が反映されていることから、車番によって形態はバラバラになる結果となっている。
なお、EF18となった32~34号機も改装が検討されたものの、結局は棚上げになってしまった(計画を推進した責任者が、旧EF58への思い入れもあって敢えて改装を提言しなかったとの話もある)ため、この3両は欠番のままとなった。
つばめ・はとの牽引
1952年夏頃から秋にかけて、東京機関区の旧EF58が特急「つばめ」「はと」に充当されるようになった。当時の特急列車は「国鉄の看板列車」そのものであり、その頃になると戦時型同様の欠陥車であった旧EF58も、装備改造によってそれなりに安定した運用がなされていたことがうかがえる。
翌年7月の名古屋電化後の特急運用は、新製(改造)間もない新EF58の担当になり、後述の試験塗装車も両列車の牽引に加わっている。
その後の運用
その後、東海道本線・山陽本線を始め直流電化区間におけるブルートレイン等の旅客列車・荷物列車牽引に広く利用された。
後継の機関車は多数存在するが、旅客列車の電車化・気動車化の方針のから、EF60(正確にはより小型のED60)以降の所謂新性能直流電気機関車は、両用機と言いながら実際貨物寄りの性能を持たされている為、どの機関車も本機の全界磁定格速度68km/hでの牽引力(実際に牽引できる重量)に劣っている。
これらの機関車に旅客列車を牽引させた結果、速度を稼ぐ為の弱メ界磁制御の多用で故障やモーターの検査修繕サイクルの頻繁化(実際ブルトレ牽引を担当する東京機関区の電気機関車は本来であれば3ヶ月周期で済む交番検査を月2回する事態も発生している)、寿命低下に繋がり、結局本機が国鉄末期まで多用される結果となった。
(EF60が故障頻発でブルートレイン牽引機としては短命に終わり、その後ブルートレイン増発の際には本機が再登板したのは有名な話だが、EF65が担当する東海道線のブルートレインですらEF65の故障時には本機が代走、しかも回復運転をこなせる程の余力があった。)
結局EF58の後継機は1985年にEF66(出力3,900kW、全界磁定格速度72.2km/h)が東海道線のブルートレイン牽引に投入されるまで事実上不在だった。
電気暖房搭載
本来SG装備であるEF58であるが、東北・上越方面使用車は電気暖房使用が標準である交流区間直通列車も多く、使用客車もほぼすべてが電気暖房装備であるため、1960年代後半からSGおよび付帯機器を撤去して、電気暖房インバーターへの換装が実施された。装備機は側面に電気暖房表示灯が追加され、屋上の水槽および油タンクへの補給口が撤去されており、電気暖房ジャンパ線が装備されているのですぐに見分けがついた。
有名なところではJR移行後に残存した89号機も該当したほか、122号機も装備機であるが使用停止につき表示灯は撤去されていた。
貨物列車の牽引
EF58は旅客用機関車であるが、実は阪和線では貨物列車も牽引していた。阪和線は大阪圏の通勤路線であり、通勤電車の合間を縫って走る必要があるため、高速性能が買われた当機が牽引に当たったということである。
保存
国鉄分割民営化に際しては波動用・動態保存用としてJR東日本・JR東海・JR西日本に計4両が承継(のち1両が車籍復帰)した。特に89号、122号、157号の3両は、動態保存と言いつつEF65・EF64の代走に出ることも多く、これら新性能電機の本格的淘汰が開始されるまではEF58も安泰ではないかといわれていた。しかし、特に東海道ブルトレ牽引従事経験を中心とする累積走行距離の跳びぬけた数字は台枠にダメージを蓄積させており、軸受けや主電動機の異常過熱に悩まされるようになっていた。2000年に前後して運用離脱が相次ぎ、2011年までにいずれも除籍、もしくは保留車となっており、61号機のみが車籍を残したまま保存されている。
塗装等バリエーション
ef58には通常の茶色やブルー&クリームの特急塗装車の他にこの様な塗装・仕様も存在した。
ぶどう色
正式名称ぶどう色2号。製造時からの塗装。
ため色
お召し列車専用機に塗装された色。ぶどう色に近い。
標準色
青色とクリーム色の直流電気機関車の標準塗装。
試験塗装
- 31号機
昭和29年1月に東芝で改装された。車体の色はベースが当時の気動車標準色(腰回り部分)だった青3号に、車体裾のスカートとパンタグラフの台座が黄かん色(湘南色の窓周り部分と同じ)で、足周りが薄灰色です。避雷器も淡緑色に塗られてた。
- 16号機
昭和29年3月に川車・川重で改装された。車体は31号機と同じくベースが青3号だか、車体裾周りに黄1号の帯、足周りが薄灰色に塗装されて黄1号の帯は、前面の飾り帯部分で下に落とし込まれている。
- 18号機
昭和29年8月に三電・新三電で改装された。塗装は16号機とほぼ同じだが、車体裾周りの帯が若干太く、前面の飾り帯部分もそのまま直線になっている。
- 4号機
昭和30年8月に東芝で改装された試験塗装最終機。塗装は車体が淡緑3号に緑2号のツートンカラーにクリーム2号の帯の他、側扉の下方の足掛け用の欠き取り部、乗務員用梯子もクリーム2号、足周りが薄灰色をベースに前端バリ、連結器解放テコが帯と同じクリーム2号に塗装されていた。
青大将塗装
昭和31年11月の東海道前線電化に置ける特急「つばめ」「はと」も無煙化時に登場した特別塗装で客車も機関車と同様、青大将色に塗られていた。塗り分けは試験塗装の4号機のものを改良した塗装パターンとなり、約25両がこの塗装に改められている。
ブルートレイン塗装
昭和35年10月の改正で「はやぶさ」が20系化され、その際にパンタグラフ着き電源車であるカニ22が登場した。その牽引を担当するEF58にMG遠隔操作制御用の装置を搭載され、同時に20系客車に合わせた塗装となった。塗り分けは車体のベースが青15号、裾の帯がクリーム1号で、下回りは登場当時は灰色2号(後に黒色化)となり、クリーム1号の帯は青大将塗装と同じく前面の飾り帯の合わせ部分で下に落とし込まれている。この一連の改造は約20両に施された。
また、1970年台前半のブルートレイン増発時にEF65の不足が発生したため、その任にあたる車輛には20系客車の空気ばねへの空気供給用にMR管を増設された車輛も多くいた。俗にP形とも呼ばれたが、最高速度向上などの改造は施されていない。末期には紀勢線や阪和線に転用され、カーブが多い区間での12系客車への制御空気供給安定のためにMR管が活用された。
お召指定機
1953年に新製された60号機(東芝製)・61号機(日立製作所製)はお召し列車用として特別に設計された。
天皇の乗用列車を牽引するという事情から、以下のような特別な装備が施されている。
運転上の安全策
- 連結器接触面、車輪の外輪部側面、台車バネ吊り部材、ブレーキロッドなど重要部材を磨き上げ、点検時に亀裂などの発見を容易にした。これは同時に装飾の効果もあった。
- 確実な速度監視のため、速度計を運転席の他に助士席側にも増設。
- 電動発電機用の界磁抵抗器を増設し、一部が故障した場合のバックアップとした。
- 故障時用に予備部品と工具を搭載。
- 自動連結器が外れる事故を確実に防止するため、上錠揚止装置(連結解除レバーのロック)を装備した。
- 停車位置を確実にするため、運転室の側面下部に列車位置停止基準板を装備(引き込み式)。
連絡設備・その他
- お召し列車編成内の供奉車(随行員・警備要員の乗車する車両)との連絡電話、および機関車前後の運転室相互間の伝声管を装備した。
- 両端の運転台前面には国旗掲揚器具を装備し、EF58形の特徴である前面の飾り帯は磨き出しのステンレスとして車体側面全周を取り巻くデザインとしている
60号機は昭和42年に衝突事故を起こして台枠を破損して御召指定が解除されて、昭和56年に廃車されるまで他のEF58と共に活躍し、61号機は東京機関区に配置されお召し列車の牽引実績は100回を超えた。2007年に一号編成の後継車両となる電車形式のハイグレード車両と特別車両(E655系電車)が落成したことにより61号機と一号編成客車の本来の役目を譲る形で、お召し列車牽引活動に終止符を打った。また2008年に、経年劣化による金属疲労で主台枠に亀裂を作ってしまい、車両を牽引しての運転が出来なくなってしまった(単独走行のみ可能)。これらの事情から勘案し、61号機は同年秋に現役を退いた。
現在、61号機は東京総合車両センターの御料車庫に保管されている。書類上は2012年現在も廃車になっておらず、保留車として田端運転所に在籍している。同センターが一般公開される日には屋外に展示されることもある。
保存機
- 61号機
東京都品川区のJR東日本東京総合車両センター内にある御料車庫にて保存。
ため色。通常は非公開。車籍がある。
- 89号機
埼玉県さいたま市の鉄道博物館内に保存。
ぶどう色。
- 93号機
埼玉県さいたま市のJR東日本大宮総合車両センターで保存。
青大将色。通常は非公開。
- 150号機
京都府京都市の京都鉄道博物館内に保存。
標準色。
- 157号機
愛知県名古屋市のリニア・鉄道館内に保存。
ぶどう色。
- 172号機
群馬県安中市の碓氷峠鉄道文化むら内に保存。
標準色。
- その他、先頭部のみのカットモデル等が複数現存する。