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50系客車の編集履歴

2020-03-24 01:20:05 バージョン

50系客車

ごじゅっけいきゃくしゃ

国鉄の普通列車用客車

概要

国鉄1977年より新製・投入した普通列車用客車。新製時の塗色(赤2号)から「レッドトレイン」の通称がある。

国鉄50系風味一般型客車

登場経緯

夜行列車や波動用ならまだしも、今更客車の新製とは時代に逆行した観は持たれたが、それまで使用されていて老朽化が進んでいたいわゆる旧客の置き換えが焦眉の急であったことと、貨物列車の削減で余剰になった機関車を転用して、旅客列車の増発を図ろうという意図が主眼である。

また当時、架線下ディーゼルも多数走っていた。しかし気動車の場合は(ほぼ)必ず1両に1基ないし2基のエンジンが載っているため稼働時間のみならず車両数の多寡そのものがそのまま経費に跳ね返る。

特に朝晩のラッシュ時のみ多数が稼働し、昼間それなりの数が休眠することとなる一般形車両の場合は必要な車両数に対して徹底的なコスト削減が求められるが、このための気動車を大量に導入できる甲斐性がこの頃の国鉄には……と判断されたきらいがある。

収支計算の結果、直流電化では12両以上、交流電化では10両以上、非電化では5両以上で客車のほうがこの様な用途には適する、と判断された。あくまで「ラッシュなど極一部の時間帯のみ走る車両」という前提のもとである。


かくして本州向けの50形・北海道向けの51形の旅客車だけで953両が製作された。

荷物車・郵便車は老朽車の取替であり、構造は共通するものの経緯が異なる。

→『マニ50

構造

一応「新型客車」に分類され(しかも国鉄客車としては最後発である)るが、安全上の理由でドアを自動として車掌の管理としている以外、照明・暖房などのシステムはむしろ旧型客車のほうが近い(車軸発電の直流電源による照明、機関車供給の熱源(蒸気または電気)による暖房など。自動ドアの動力である圧縮空気も機関車供給で、客車自己完結型ではない)。

コストの兼ね合いもあり全て非冷房車として製造されたが、屋根高さ・半径は集中型クーラーも搭載が「不可能でない」寸法で製作された。(これは115系や113系の冷房準備車と違い、準備用の蓋などは用意されていないただのフラットな屋根である。)但し後年の冷房化改造車に一般的なAU75のような集中型クーラー(屋根中央に大型1基)というものは存在しない。(JR北海道のトロッコ列車改造に乗るとわかるが、屋根の骨組みはそもそも冷房を積むことを想定していなかった構造であることがわかる。)

本州以南用の50形はユニット式2段窓、北海道向けの51形はユニット式ではない二重窓で製作された。


車両両端にデッキと乗降用ドアを備え、座席は標準的なボックスシート(クロスシート)に両端のデッキ近くのみがロングシートとキハ40に似た配置である。

つまり、基本的な車体構造は依然として長距離型のままで、本来必要とされた(であろう)”通勤型客車”的な車両はついに現れなかった。

民営化後

しかし、1970年代の政治的かつ奇怪極まりない労使問題に起因する鉄道荷物輸送の急激な衰退のため、客車列車存続の要因であった荷物輸送が殆ど全廃され、民営化の直前頃には導入費用はともかく人件費が掛かる客車列車、特に普通列車を存続させる理由が無くなった。


クロスシート車に見られた閉鎖空間ゆえの喫煙問題や、窓が開く車両では学生などが窓からカバンを投げ入れて席を取る行為もあり、地域の自治体の要望もあってクロスシート車をロングシート車に改造したり、701系のような明らかに居住性の劣るロングシート車の新投入例もある。(根本的に解消するには当時すでにJR東海が行っていたような下段の固定化・灰皿の撤去しかなかったが、当時の50系客車は国鉄財政の悪化のつけで、夏季に窓を締め切りにできる冷房および電源装置が装備されていなかった。以後使用に必要とされる、省略されていた冷房化・発電装置装備・ブレーキのフルスペック化・汚物処理装置などの取り付けを行った場合、改造費が膨大なものとなったと想定される)


しかしそれで他の利用客(特に中〜長距離の利用者)がとばっちりを喰らうというのはたまったものではないが。国鉄の放漫経営と内部腐敗がまわりまわって時間差で一方的かつ強引に乗客に払わせられたともいえ、極めて理不尽である。


更にはJR移行後は、そもそも客貨で会社が別になったため機材の共用のメリットが失せてしまい、地方線区で不可欠なワンマン運転が不可能という事情もあって、電車化・気動車化が進展、急速に勢力を減じた。

JRでは2002年11月一杯で津軽海峡線快速海峡」を最後に定期運用から撤退した。現在はイベント列車用に改造された一部車両が残っている。

このほか、真岡鐵道が「SLもおか」用にJR東日本から譲渡を受けた3両が現役唯一の原型車両として、戦前の3等車風のブドウ2号色地に赤帯塗装で残る。これは煤煙による汚損対策の意味合いも大きい。


JR九州SL人吉の客車も相当改造を加えられ、バブル期の改造デザインを水戸岡デコレーションの内外装でさらに再改装したので余り原形をとどめないが、種車や形式称号は50系である。


改造車

5000番台

津軽海峡線快速海峡」に使用するために改造された車両。種車は50形、51形両方存在する。

改造内容としては側面窓の1枚固定化(50形のみ)、座席を0系の転換クロスシートに交換と冷房化。

冷房用の電源はED79の電気暖房用の電源と共用する形とし、発電機などは搭載しない。

(そもそも、青函トンネル内ではディーゼルエンジンの使用は駆動動力用としては非常時を除き禁止、発電用エンジン装備車は非常用高速消火装置の設置が義務である。)

また、最高速度110km/hの走行に対応するために台車やブレーキなども改良されている。(14系からの発生品であるTR217空気ばね台車に換装した事例もある。

後にサービス向上などを目的に「カラオケカー」や「カーペットカー」といった車両や、「ドラえもん海底列車」用の装飾が施されたりしたが、先述の通り2002年に定期運用を終了。その後も一部車両は救援車として残っていたが、2016年までに全廃された。


「アメリカントレイン」用改造車

JR化直後の1988年、アメリカ製品の展示催事場列車としてJR東日本所属の12両が改造され、荷物車の形式であるオニ50・オニフ50を名乗った。外観はアメリカ国旗の色彩のラッピング塗装が施され、座席はすべて撤去されているが、車体に関してはAU13分散型クーラー搭載改造・電源装置搭載・汚物処理装置設置など妙に改造内容が本格的であった。1989年までの1年間日本全国を巡り、特設で沖縄にも上陸している。

どれもイベント終了後の復元継続使用を前提として改造されたのではないかと推測でき、以降の一般車の冷房・発電装置・汚物処理装置設置の改造コストや工法・運用コスト査定のためのモデル改造車の役割もあったとも思われる。

単に催事場として使用するのであれば、当時大量に余剰のあったマニ50をかき集めて充当すればよいことで(実際に同様の列車でマニ50を充当した例は複数ある)、改造内容が仮設イベント車としては妙に「本格的」にすぎ(低コスト型のインバーター冷房装置AU712が量産機として登場するのは翌年の1989年以降である)、おそらく改造コストおよび運用コストが予想以上に高騰したため、50系客車のそれ以降の運用をあきらめざるをえなかったのであろうか。

運用終了後はオニ50の2両が五能線の「ノスタルジックビュートレイン」に指定座席車として転用されたものの、全廃方針が決定していたため1995年までに再改造されることなく廃車となっている。


気動車化

JR化を前後して北海道向けの51形の一部が気動車に改造(キハ141系)された(JR西日本でも同様のキハ33が2両存在した)。この手の気動車化の元客車としては割と長い期間活躍したが、2012年の札沼線の電化で余剰となった。

他線区に転用・海外譲渡された一部以外は廃車・解体と思われたが、さらにその一部はJR東日本SL銀河用客車として、C58蒸気機関車の客車兼補助動力車として改造された。

事業用車

異色の存在としてオハフ50 2301より改造された建築限界測定車、スヤ50 5001→マヤ50 5001が存在する。在来車のような原始的な腕木ではなく光センサーにより限界を測定する構造であるが、当初は窓埋めと光センサー設置くらいで比較的種車の原形をとどめていたが、East-i併結改造の際センサー増設などの追加改造を受け、その上近年さらなるセンサー更新及び増設を含む機器更新を受け、妻窓と車体断面以外原形をとどめない、アニメメカのごとき光センサーとダクトとルーバーの怪物と化し、事前に知識がなければ原形が想像しづらいまさに異端・ゲテモノと呼ぶべき車輛となっている。





50系・・その他の50系

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