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カツラギエースの編集履歴

2021-03-15 21:12:23 バージョン

カツラギエース

かつらぎえーす

JRAの元競走馬、種牡馬。1984年最優秀古馬牡馬。日本馬で初めてジャパンカップを制した。

概要

JRAの元競走馬、種牡馬。1984年最優秀古牡馬。

カツラギエースは1980年4月24日生まれ、父ボイズィーボーイ、母タニノベンチャ。通算22戦10勝。栗東・土門一美厩舎所属。


崎山博樹西浦勝一両調教師の騎手時代の代表的騎乗馬としても知られる。


活躍

1982年9月、阪神の芝1200m新馬戦でデビューするや、14頭立ての7番人気ながら、厩舎の準主戦騎手であった崎山博樹を鞍上に8馬身差で圧勝。続く萩特別(400万下)2着、りんどう特別(400万下)1着、ラジオたんぱ賞3歳ステークス3着とまずまずの成績で終えた。


4歳になった1983年はクラシックを見据えて挑んだ。初戦に選んだ2月の京都競馬場の4歳ステークスは13頭立ての13着と最下位負けを喫してしまうが、続く3月の春蘭賞(800万下)に勝ち皐月賞に駒を進めた。


その皐月賞は7番人気で果敢に先行したが、苦手の不良馬場に脚をとられて、最大のライバルであるミスターシービーの11着に惨敗。そのため次走は東京の馬場に慣れる目的もあってNHK杯に出走、9番人気の低人気であったが、大外枠ながら強い勝ち方をして重賞初制覇。そして迎えた日本ダービーでは3番人気に支持されるも、またミスターシービーの6着に敗れた。ダービー後すぐに休養には入らず6月の中京4歳特別に出走し、皐月賞では殿負けを喫した後のマイル王・ニホンピロウイナーの2着で春を終えた。


夏を越した秋にようやく本格化し、初戦の神戸新聞杯こそスズカコバンとは僅差の2着に敗れたが、厩舎の主戦である西浦勝一に乗り替わった京都新聞杯は、同年の有馬記念を制するリードホーユーを直線で捕まえて6馬身差の圧勝、加えてミスターシービーを4着に破った。


いよいよ本格化と期待され本番の菊花賞では2番人気に支持された。果敢に先行したものの、距離不適だったのは否めず、21頭立ての20着と惨敗を喫した。ちなみにこのレースはミスターシービーが勝ってシンザン以来19年ぶりの三冠馬を達成している。


古馬になった翌1984年は、菊花賞の結果から長距離は不適と判断した陣営により、春は宝塚記念、秋はこの年から2000mに短縮された天皇賞を目標に据えられた。初戦の鳴尾記念(当時芝2500m)は4着だが、続くサンケイ大阪杯(当時GⅡ)は1番人気に応えて快勝、次走は京阪杯(当時芝2000m)に出走。58.5kgの斤量を背負いながらも1番人気に応えて重賞を連勝し、2000mの重賞を共に2馬身差以上の差で勝利した。


そして迎えた宝塚記念、ミスターシービーがこの年未だ休養中と確かな主役が不在であった。先だって天皇賞を勝ったモンテファストや1982年菊花賞馬のホリスキーが出走していたものの、ファンの信頼は薄く、カツラギエースは早くから陣営が宝塚記念を目標にし、ここまで2000mの重賞を連勝していることをファンは高く評価していたため、単勝1.9倍の1番人気に支持された。道中は2、3番手につけ、直線で抜け出すとスズカコバンを寄せ付けずに完勝。勝ち時計も前年のハギノカムイオーのレコード2分12秒1からコンマ3秒の2分12秒4と好タイムでの快勝、GI馬の仲間入りをしたと同時に「中距離のカツラギエース」の印象を強くした。3週間後の高松宮杯(当時芝2000m)では59kgの斤量と重馬場が堪えたか、直線でスズカコバンに大外に振られたこともあり、キョウエイレアの5着に敗れた。


秋初戦の毎日王冠ではミスターシービーが菊花賞以来久々に姿を見せ、南関東三冠馬のサンオーイも出走し、三強対決と報道された。レースでは先行するカツラギエースが直線追い込むミスターシービーをアタマ差押さえ勝利したが、2着に鬼脚で追い込んだミスターシービーの方が目立つことになる。その天皇賞・秋ではファンは中距離実績よりも三冠馬の底力を評価し、ミスターシービーの3度目の対抗人気となる2番人気にとどまった。レースではいつものように最後方から直線だけで豪脚を繰り出したミスターシービーに凱歌が上がり、カツラギエースは折り合いを欠いて5着に終わった。


ここでカツラギエースは「前哨戦では勝つが本番ではシービーに負ける」「宝塚記念もシービー不在だから勝てた」と揶揄されるようになる。


その後一旦は第1回開催となるマイルチャンピオンシップに行くと表明したが、最終的に第4回ジャパンカップに廻る。ジャパンカップではミスターシービーと、同年クラシック三冠を制したシンボリルドルフの新旧三冠馬対決に注目が集まり、過去3回外国馬の後塵を拝し続けていた歴史に終止符を打ち日本馬の優勝が期待されていた。カツラギエースもGI馬であってもこの2頭の前では影が薄く、天皇賞で露呈した気の悪さ、長すぎる距離、外国馬を過大評価していたこともあり10番人気であった。


ここで主戦の西浦騎手は折り合いを欠いて失敗した反省から、陣営と相談を重ねて様々な秘策を講じた。一つはカツラギエースを落ち着かせるために耳袋のついた覆面を被せ、周囲の雑音を聞こえにくくした。二つは通常より手綱を30cm長く持つ「長手綱」でリラックスさせ、馬の気持ちに任せて、初めてスタートから先頭に立つ逃げ戦法を選択。しかし西浦は三冠馬のどちらかを負かしてやろうとは思っていたものの、勝てるとは考えていなかったという。西浦自身カツラギエースにとって2400mは長いと考えていたためだが、ゲートが開くとカツラギエースは自然と逃げる展開になった。向こう正面では2番手以下を10馬身以上引き離し、ここまでは西浦の作戦通りであった。シンボリルドルフは中団につけ、ミスターシービーは離れた最後方に位置した。前半の1000mを61秒6で通過するスローペースで後続の騎手も気付いていたが、本命のミスターシービーが最後方に構えていたこともさることながら、ストロベリーロードに騎乗していたイギリスの世界的大騎手であるレスター・ピゴットが動かず、彼の判断に引きずられたこともあり動けなかった。この状況を最大限に利用したカツラギエースは脚を貯め、直線では後続に捕まりそうで捕まらず最後まで踏ん張り、イギリスのベッドタイム、シンボリルドルフ、アメリカのマジェスティーズプリンスらの追撃を振り切って逃げ切り、1着でゴールイン。遂にミスターシービーをGIで負かしたと同時に日本馬初のジャパンカップ制覇を果たし、同年の三冠馬のシンボリルドルフは3着と初黒星をつけた。


大方のファンは2頭の三冠馬いずれかが外国馬を打ち負かすことを期待していたため、カツラギエースが先頭でゴールした直後、ファンの思惑とは違った結果にスタンドは騒然となるどころか、むしろ唖然として静まり返っていた。


その後は日本馬で初めてジャパンカップを制したこの時点で引退するのだが、種牡馬としての価値を高めるというオーナーの判断もあり、同年の有馬記念を最後に引退することが発表された。シンボリルドルフ、カツラギエース、ミスターシービーによる三強対決と大きく報道される。また史上初の3頭が単枠指定(当時は馬番連勝がなく、人気馬を枠1頭にする措置)され、当日は2番人気に支持された。このレースでもジャパンカップと同様に果敢に逃げたが、シンボリルドルフの徹底マークにより2着に敗れるが、3着のミスターシービーには先着し、ジャパンカップの勝利がまぐれではないことを証明。同年の優駿賞最優秀5歳以上牡馬を受賞し、1985年1月に京都で引退式が行われた。


ミスターシービーとは3歳時は1勝3敗だったが、古馬になってなら3勝1敗で4勝4敗の互角となり、実質シービーの最高のライバルと評される。


引退後は種牡馬入りするが、活躍馬は牝馬が多かったという。


2000年7月、永眠。

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