ピクシブ百科事典は2023年6月13日付でプライバシーポリシーを改定しました。改訂履歴

麻原彰晃の編集履歴

2021-06-12 01:45:36 バージョン

麻原彰晃

あさはらしょうこう

オウム真理教の創設者であり教祖。

概要

本名は松本智津夫

1955年3月2日生まれ。

宗教団体オウム真理教の創設者及び代表であった。


来歴

熊本県八代郡金剛村(現八代市金剛校区)出身で、畳職人の貧しい家で9人兄弟の7番目として生まれたが、片目が先天性の緑内障で失明していたため寮のある熊本県立盲学校に全盲の兄や弱視の弟と一緒に出された。全盲の生徒が多い中で片目が見える彼は、同級生相手に有利な立場にあったため威張っていたという。

これは生来の性格のみならず、障害のある自分たちを、親が金が一切かからない盲学校に「捨てた」と認識したことにも起因している。そして、盲学校に在学中は両親が学校に訪れることもなく、里帰りすることもなかったという。


熊本県立盲学校を卒業後、上京し東京大学文科1類を目指すが挫折。鍼灸師免許を取得し、予備校で出会った松本知子(事件で逮捕され、処分ののち釈放されたあとで戸籍名を変更している)と結婚。千葉県船橋市に住み鍼灸院を経営していたが、この頃から阿含宗やGLAなどの宗教団体にも出入りしていた。1981年に無許可の薬品を販売し薬事法違反で逮捕される。「彰晃」の名はその少し後の時期に出入りしていた経営塾の主催者にもらった名前である。

やがてヨガ教室「オウム神仙の会」を開き、これを宗教団体に発展させてゆく。団体が宗教としての性格を強めたこの頃から、『麻原彰晃』の名を名乗り始めた。

宗教団体の長として活動し始めた初期の麻原は、不殺生や食の尊さを優しく説くなど宗教家として、父としてごく一般的で穏やかな人物であったという。


ホーリーネーム「マハー・グル・アサハラ」

「真理の御魂 最聖 麻原彰晃尊師」という名義も存在した。


その裏で、教団が勢力を拡大するごとに暴力や犯罪行為へと舵を切ってゆき、1988年には信者を死亡させる事件を起こす。翌年にも信者を殺害しており、この頃から非合法活動が活発になる。

1990年、教団幹部と共に衆院選に出馬し、同教団音楽班(後の究聖音楽院)トップである鎌田紳一郎作曲の「尊師マーチ」などで世間の話題をさらい、テレビではビートたけしと対談し、他にはとんねるずの「生でダラダラいかせて!!」や、「朝まで生テレビ!」などにも出演したことがある。しかし、当の選挙では自身も含めたオウムの候補者は全員落選。この選挙での惨敗は麻原を打ちのめし、四女が主張した陰謀論を真に受けて以降は「武力による国家転覆」を画策する邪教と化した。


その後も数々の犯罪事件の疑惑にさらされるも決定的な証拠をつかませなかったが、1995年3月20日に発生した地下鉄サリン事件をきっかけにして同年5月16日に逮捕される。


本妻や信者の女性たちとの間に多数の子供達がおり、本妻との間だけでも6人の子供がいたが、父の逮捕により一家はバラバラになり、学校の入学を拒否されたりいじめにあったり、教団の後継組織アレフに勝手に名前を使われたりと辛酸を舐めたといい、長女は窃盗に手を染めて逮捕されている。

最も麻原が寵愛し後継者候補とも言われ「アーチャリー」のホーリーネームで知られた三女の松本麗華は成人後実名を公表し著述活動をしている。麗華・次女(松本宇未のHNでブログやtwitterで発言)・長男・次男と、手記を「松本聡香」の仮名で発表した四女とは特に折り合いが悪いと言われており、麗華自身もポータルサイトのコラムで妹の発言内容を否定するなど泥仕合状態になっている。

麗華と四女、それぞれの支援を行なっている著名人ら(麗華には「オウム事件真相究明の会」を立ち上げて麻原の死刑執行に抵抗する森達也や宮台真司・雨宮処凛らがつき、四女には江川紹子が後見人となりコメント発表は滝本太郎弁護士を通じている)も巻き込んだ対立構造となっている。


2006年に死刑判決が確定、裁判中から奇行や奇妙な言動が目立つようになり、死刑逃れの仮病と目されたこともあったが、麗華によると既に娘達とすらまともな会話は出来ず、精神を病んでいる可能性が高かったとされる。しかし、麗華より後の時期に面会した聡香の証言では普通に受け答えができている部分もあったといい、この辺りも証言者により大きなブレがあり真相は判然としない。

2010年代に刑のため拘置所に勤務した服役囚の話では、麻原の部屋は糞尿まみれで本人もまるで抜け殻のようであったといい、少なくともまともな受け答えを期待することはほぼ絶望的であったようである。


2018年1月にオウム事件に関する一連の刑事裁判が終了、最終的に死刑が確定したオウム関係者は13名だった。3月14日にこのうち6名が東京拘置所から移送され(麻原は東京拘置所に残留)、執行の日が近いとも目されたが、4か月後の7月6日に麻原を含む計7名(内訳は、前述の移送組のうちの3名と、東京拘置所に残留した麻原含む4名)の死刑が執行された。享年63。

執行直前の教戒も断り、暴れもせず落ち着いた様子ではあったが執行の寸前には若干表情に変化が見られたと報じられている。

最期に発した言葉は「ちょっと待って」「グフッ」「(遺骨の引き取り先を問われて)四女」だったとされる。

しかし、彼の遺骨の引き取りを巡り、指名されたと言われている四女と、妻・麗華・次女・息子2人の骨肉の争いが起こり(長女はこの騒動からは距離を置いているようである)、家裁・高裁ともに四女側の抗告を棄却し、次女に引き渡すとの審判が出ているが、現在も麻原の遺骨は東京拘置所にある。


人物

洗脳や人心掌握の天才であり、信者を多数獲得する一因となった。高々国内で1万人程度の宗教団体が粗悪ながら銃器や細菌兵器を製造するに至ったのも、貧しく不幸な人々だけではなく物質面では満たされても心に隙間を抱えていた高学歴の信者の獲得に成功した、麻原の能力のたまものであった。

元側近である上祐史浩も、雑誌のインタビューにて「麻原は人の心を読む感受性は鋭く、超能力のようなものは確かにあった」と認めている。しかし続いて「能力と人格が一致しない人物だった。麻原の根源は、逆恨み被害妄想。弱視だった子供時代からの逆恨みを社会に広げた人物だ」とも評した。


怪物的な人間性が取りざたされる一方で、教祖としてふるまう必要がない場面では素直で気の小さな凡人としての顔も持っており、逮捕後弁護士に教祖としての信頼を得るために空中浮揚を披露することを勧められてしばらく修行に励んだり、検察官に「壁を抜けてみろよ」とからかわれると苦笑したという。


十代の頃は身長175cm、体重80kgと同世代の中ではやや大柄で、柔道に打ち込んでおり盲学校の生徒としては異例の二段を取得している(逮捕後剥奪)。


起訴された罪状

この中には裁判の迅速化を図る為に後に取り下げたものも含まれている。

  • 男性信者殺害事件(殺人罪)
  • 坂本堤弁護士一家殺害事件(殺人罪)
  • サリンプラント建設事件(殺人予備罪)
  • 薬剤師リンチ殺人事件(殺人罪・死体損壊罪)
  • 滝本弁護士サリン襲撃事件(殺人未遂罪)
  • 自動小銃密造事件(武器等製造法違反)
  • 松本サリン事件(殺人罪・殺人未遂罪)
  • 男性現役信者リンチ殺人事件(殺人罪・死体損壊罪)
  • 駐車場経営者VX襲撃事件(殺人未遂罪)
  • 会社員VX殺害事件(殺人罪)
  • 被害者の会会長VX襲撃事件(殺人未遂罪)
  • 目黒公証人役場事務長拉致監禁致死事件(逮捕監禁致死罪)
  • 地下鉄サリン事件(殺人罪・殺人未遂罪)
  • チオペンタール密造事件(薬事法違反)
  • LSD密造事件(麻薬及び向精神薬取締法違反)
  • 覚醒剤密造事件(覚せい剤取締法違反)
  • メスカリン密造事件(麻薬及び向精神薬取締法違反)

本人の解説


麻原彰晃をテーマとした楽曲

彰晃マーチ / 尊師マーチ


いわゆる「宗教歌」のひとつで、もともと衆院選での選挙応援歌(上)として使用していたが、宗教歌となる際に歌詞が改められた(下)。

覚えやすく軽快なメロディーから、当時の小学生などが歌ったりリコーダーで演奏することが多々あり、今でも人々の記憶に残り続けている。


真理教、魔を祓う尊師の歌


余談

ゲーム「グランド・セフト・オート(GTA)4」には、彼の名を冠した"アサハラ・ロード"という通りが登場する。


関連項目

オウム真理教 石原慎太郎 ポア Aleph

旧尊師恒心教徒による呼称

テロリスト


ゲーチス…教祖、大柄な壮年男性、片目が不自由、やたら名前を連呼しネタにされるテーマ曲、失脚後に発狂し廃人となるなど共通点がやたら多い。また、彼が率いている組織も、最初は悪徳宗教で人々を洗脳し、それが効かなくなると暴力に頼りだした点や、首領がいなくなった後に「その思想を継いで引き続き悪事を働く者たち」と「今までの思想を捨てて改心する者たち」の二手に分かれている点など通じるものがある。



関連外部リンク

問題を報告

0/3000

編集可能な部分に問題がある場合について 記事本文などに問題がある場合、ご自身での調整をお願いいたします。
問題のある行動が繰り返される場合、対象ユーザーのプロフィールページ内の「問題を報告」からご連絡ください。

報告を送信しました